『蜘蛛の糸』のカンダタは本当に可哀想なのか?糸が切れた理由と芥川龍之介が伝えたかったこと

文学、古典

芥川龍之介の『蜘蛛の糸』は、罪人カンダタが地獄から救われる機会を与えられながら、最後には再び地獄へ落ちてしまう物語です。しかし、読者の中には「垂らされた蜘蛛の糸はカンダタのものなのだから、他人に譲らず自分が登る権利があるのではないか」「罰が厳しすぎるのではないか」と感じる人もいます。

この疑問は、『蜘蛛の糸』を単なる善悪の話として読むと生まれやすいものです。この記事では、カンダタの立場や蜘蛛の糸の意味、芥川龍之介が描いた人間心理について詳しく解説します。

蜘蛛の糸は本当にカンダタだけのものだったのか

物語の中では、お釈迦様が過去に一度だけ善行をしたカンダタを見つけ、その行いを評価して蜘蛛の糸を地獄へ垂らします。そのため、「この糸はカンダタが受け取るためのものなのだから、他の亡者に使わせる必要はない」と考えることもできます。

しかし、ここで重要なのは、蜘蛛の糸が単なるご褒美ではなく、カンダタが本当に変われるかどうかを試す機会として描かれている点です。

お釈迦様はカンダタに「地獄から抜け出す可能性」を与えましたが、それは単純に助けるという意味ではなく、彼自身の心の変化を見るための機会だったと考えられます。

カンダタが地獄へ戻された理由は糸を独占したから

カンダタは最初、必死に蜘蛛の糸を登ります。しかし、途中で下を見ると、多くの亡者たちが自分の後ろから登ってきていることに気付きます。

そこでカンダタは「この糸は俺のものだ。下りろ」と叫びます。その瞬間、蜘蛛の糸は切れてしまい、カンダタは再び地獄へ落ちます。

物語上の重要な点は、カンダタが他人を助けなかったことそのものよりも、救われるために必要だったはずの慈悲の心を最後まで持てなかったことです。

カンダタは本当に悪人だったのか

カンダタは生前、多くの悪事を働いた大盗賊として描かれています。しかし、芥川龍之介は彼を単純な悪人として描いているわけではありません。

蜘蛛を踏み潰そうとした時に思いとどまったという小さな善行があり、その一点をお釈迦様は覚えていました。つまり、どれほど悪い人間でも、完全に救いの可能性がないわけではないということが示されています。

その意味では、カンダタは「救われる価値がない人」ではなく、「最後の最後で自分の本質を変えられなかった人」と見ることができます。

カンダタが可哀想だと感じる読み方も間違いではない

「カンダタは可哀想だ」と感じること自体は、作品の読み方として間違いではありません。なぜなら、カンダタは一度は救われる機会を与えられ、あと少しで地獄から抜け出せるところまで来ていたからです。

また、「自分がつかんだ糸なのだから、自分が優先されるべきではないか」という考え方も、人間の自然な感情として理解できます。

しかし、芥川が描いたのは法律的な公平さではなく、人間の心の弱さです。追い詰められた時、人は自分だけを守ろうとしてしまうことがあります。その瞬間にカンダタは以前と同じ自己中心的な心に戻ってしまいました。

蜘蛛の糸が伝えるテーマは単純な勧善懲悪ではない

『蜘蛛の糸』は、「悪人は罰を受ける」というだけの話ではありません。むしろ、人間は変わることができるのか、善意を持ち続けることができるのかという問いを投げかけています。

例えば、普段は優しい人でも、困難な状況になると他人を押しのけてしまうことがあります。逆に、自分が苦しい時でも誰かを思いやれる人もいます。

カンダタの失敗は、特別な悪人だけが犯すものではなく、人間誰もが持つ弱さを表現しているのです。

まとめ|カンダタは可哀想だが、糸が切れた理由にも意味がある

『蜘蛛の糸』のカンダタを「可哀想」と感じることは自然な感想です。彼は確かに救われる機会を与えられ、あと少しで助かるところまで進みました。

しかし、蜘蛛の糸は単なる逃げ道ではなく、カンダタが本当に変わったのかを試す機会でもありました。自分だけ助かろうとした瞬間、彼は以前と同じ心に戻ってしまったのです。

この作品の魅力は、カンダタを完全な悪人として切り捨てず、人間の弱さや救いの難しさを描いている点にあります。だからこそ、時代を超えて多くの人に考えさせる作品になっています。

コメント

タイトルとURLをコピーしました