今鏡「道に会ふ人、きびしく恥ぢがましきこと多く聞こえき」の意味と構文解説

文学、古典

古文を読解する際、助詞や助動詞だけでなく、省略されている言葉を補って文の意味を考えることが重要です。特に中古・中世の文学作品では、現代語では省略しないような表現が頻繁に用いられます。

『今鏡』の一節である「道に会ふ人、きびしく恥ぢがましきこと多く聞こえき。」も、省略を補うことで意味が明確になります。ここでは、この部分の構文や「多く」の後に何が省略されているのか、詳しく解説します。

「道に会ふ人、きびしく恥ぢがましきこと多く聞こえき」の現代語訳

該当部分を区切ると、次のように読むことができます。

「道に会ふ人」=道で(その人に)出会う人は
「きびしく恥ぢがましきこと」=ひどく恥ずかしい思いをするようなこと
「多く聞こえき」=多くあったと伝え聞いた

全体としては、「道で出会った人が、ひどく恥ずかしい思いをするような出来事が多くあったと聞いている」という意味になります。

ここで大切なのは、「聞こえき」が単純に『聞こえてきた』という意味ではなく、古文では『(人から)申し上げる・伝わる・評判になる』という意味でも使われる点です。

「多く」の後に省略されている言葉

質問の中心となる「多く」の部分ですが、古文では形容詞や副詞の後ろに、意味上必要な語が省略されることがあります。

この場合、「多く」の後には「あり」という存在を表す語が省略されていると考えます。

つまり、もとの形を補うと、

「きびしく恥ぢがましきこと多く(ありて)聞こえき」

となります。

現代語にすると、「ひどく恥ずかしいような出来事が多く(あって)、そのことが世間に伝わっていた」となります。

なぜ「あり」が省略されるのか

古文では、「あり」「なる」「侍り」などの存在や状態を表す語が省略されることがあります。特に、直前の語が状態や数量を表す場合、省略されても意味が通じるためです。

例えば、「悲しきこと多くあり」という表現は、現代語なら「悲しいことがたくさんあった」と言いますが、古文では「悲しきこと多く」とだけ書かれることがあります。

これは古典文学特有の簡潔な表現であり、読者が文脈から補うことを前提にした書き方です。

「道に会ふ人」はどのように解釈するか

「道に会ふ人」は、「道で出会う人」という意味になります。ただし、この「会ふ」は単なる偶然の出会いではなく、その人物の厳しい態度や行動に接するというニュアンスがあります。

前の文章では、その人物が古い制度を復活させたり、身分の高い人々にも厳しく接したりする人物だったことが述べられています。

そのため、道で偶然出会った人々も、その厳格な態度によって緊張したり、恥ずかしい思いをしたりすることが多かった、という流れになります。

「恥ぢがましきこと」の意味

「恥ぢがましき」は、「恥ずかしいような」「面目を失うような」という意味です。

「がまし」は接尾語で、「~のようだ」「~らしい」という意味を加えます。例えば、「嫌がまし」は「嫌な感じがする」、「恩がまし」は「恩着せがましい」という意味になります。

したがって、「恥ぢがましきこと」は単純に恥ずかしいことではなく、「相手の厳しさによって自分の不十分さを感じさせられるような出来事」という意味合いになります。

古文読解で省略を見抜くポイント

古文の省略を補うときは、単語だけを見るのではなく、前後の文脈から何が必要かを考えることが重要です。

今回の場合、「こと多く」だけでは現代語として不自然なので、「何が多いのか」を考えると、「ことが多くある」という形が自然になります。

また、「聞こえき」が続いているため、「多くありて聞こえき」という流れにすると、「多くの出来事があったと伝わった」という意味が成立します。

まとめ

『今鏡』の「道に会ふ人、きびしく恥ぢがましきこと多く聞こえき」は、「道で出会った人々が、ひどく恥ずかしい思いをするような出来事が多くあったと聞いている」という意味になります。

「多く」の後には「あり」が省略されており、「きびしく恥ぢがましきこと多くありて聞こえき」と補うと理解しやすくなります。

古文ではこのような省略表現が多く登場しますが、文脈から不足している言葉を補うことで、正確な意味を読み取ることができます。

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