『徒然草』第135段の注釈には、「此段は前段『人の上のみはかりて己をば知らざるなり。』と言いしを受けて」とあり、その後に「過言を戒めたり」と続きます。この部分は古文独特の省略表現が多く、文章のつながりを理解しにくい箇所です。この記事では、この注釈が何を意味しているのか、前後関係を確認しながら分かりやすく解説します。
徒然草135段の注釈が示している内容
「此段は前段『人の上のみはかりて己をば知らざるなり。』と言いしを受けて」という部分は、「この段は、前の段で『人のことばかり評価して、自分自身のことを知らないものである』と言った内容を受けて書かれている」という意味です。
つまり、135段だけを独立して読むのではなく、134段以前の話と関連づけて読む必要があるということです。兼好法師は、人間が他人の欠点には気付きやすい一方で、自分自身の欠点には気付かないことを繰り返し述べています。
注釈では、その流れを踏まえた上で、この段では「過ぎた言葉や度を超えた発言を慎むべきだ」という教えにつながることを説明しています。
「過言を戒めたり」の意味
「過言(かごん)」とは、ここでは「言い過ぎること」「度を超えた発言」「必要以上に大げさなことを言うこと」を意味します。
「過言を戒めたり」は、「言葉が過ぎることを戒めている」という意味になります。つまり、徒然草135段では、人について批判したり評価したりするときに、行き過ぎた発言をしないよう注意しているのです。
例えば、他人の行動を見て「あの人は間違っている」「あの人は能力がない」と強く批判することがあります。しかし、自分自身も同じような欠点を持っているかもしれません。そのことを忘れて人を責めることを、兼好法師は戒めています。
前段「人の上のみはかりて己をば知らざるなり」との関係
「人の上のみはかりて己をば知らざるなり」という言葉は、「人のことばかり判断して、自分自身については分かっていない」という人間の性質を表しています。
この考え方を135段につなげると、「他人のことをあれこれ言う前に、まず自分自身を振り返るべきである」という教えになります。
つまり、他人への批判や評価が行き過ぎると、それは「過言」になります。自分のことを十分理解していない人ほど、他人について多く語りすぎてしまうという流れです。
注釈の文章を現代語で言い換えると
注釈の「此段は前段『人の上のみはかりて己をば知らざるなり。』と言いしを受けて、過言を戒めたり」という文章は、現代語にすると次のようになります。
「この段は、前の段で述べた『人は他人のことばかり判断して、自分自身のことを理解していない』という考えを受けて、他人について言い過ぎたり、度を超えて批判したりすることを戒めたものである。」
このように考えると、「前段を受けて」と「過言を戒めたり」の間には、「人は自分を省みず他人を評価しがちだから、その結果として言葉が過ぎてしまう」という意味のつながりが省略されていることが分かります。
徒然草135段から学べること
徒然草135段の教えは、現代にも通じるものがあります。SNSやインターネット上では、他人の発言や行動について簡単に意見を述べることができますが、その中には必要以上に批判的な言葉も見られます。
兼好法師が伝えようとしたのは、「他人を評価する前に、自分自身を見つめ直すことの大切さ」です。自分の未熟さを理解していれば、相手に対しても慎重で思いやりのある言葉を選ぶことができます。
古典作品でありながら、人間関係や言葉の使い方について考えさせられる点が、『徒然草』が現在でも読まれる理由の一つです。
まとめ
『徒然草』135段の注釈にある「此段は前段『人の上のみはかりて己をば知らざるなり。』と言いしを受けて、過言を戒めたり」という部分は、前段の「他人ばかり評価して自分を知らない人間の性質」を受けて、言葉の言い過ぎを戒めているという意味です。
「前段を受けて」と「過言を戒めたり」の間には、「他人を批判しすぎる人は、自分自身を見つめていないため、発言も行き過ぎてしまう」という内容が省略されています。
この流れを理解すると、注釈全体の意味がつながり、135段が伝えようとしている「自分を省みて慎んで言葉を使うこと」の重要性が見えてきます。


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