夏目漱石の『吾輩は猫である』には、現代ではあまり使われない表現や江戸時代から続く口語が多く登場します。その中でも「たんとでもねえが三四十はとったろう」という一文は、意味を知らないと「とんでもない」の聞き間違いなのか、「たくさん」という意味なのか迷いやすい表現です。この記事では、この言葉の意味や文章全体で何を表しているのかを分かりやすく解説します。
「たんとでもねえが」は「とんでもない」ではない
「たんとでもねえが」は、現代の「とんでもない」という意味ではありません。「たんと」は古い日本語で「たくさん」「多く」という意味を持つ言葉です。
そのため、「たんとでもねえが」は「たいした数ではないが」「それほど多いわけではないが」というような、少し控えめに数量を述べる表現になります。
現代風に言い換えると、「たいしたことはないが、それでも三、四十匹くらいは捕っただろう」という意味になります。
「三四十はとったろう」は何を意味しているのか
この文章の「三四十はとったろう」は、「三十匹から四十匹ほど捕まえただろう」という意味です。
ここでいう「とった」は、鼠(ねずみ)を捕まえたことを表しています。つまり、質問にあるような「340匹の鼠をとった」という意味ではありません。
昔の日本語では「三四十」のように数字を並べて、「30〜40くらい」という大まかな数量を表すことがありました。
「たんとでもねえが」のニュアンスは謙遜なのか
「たんとでもねえが」は、単純に謙遜しているというより、話し手が数量を控えめに表現する言い方です。
例えば、「たいしたことはないけれど、昔は三十匹や四十匹くらい捕まえたものだ」というように、自慢話を少し控えめに語る時の雰囲気があります。
猫が自分の能力を語る場面で使われているため、「俺はすごい」と直接言うのではなく、「まあ大したことではないが」と前置きするような味わいがあります。
「たんと」の本来の意味と使われ方
「たんと」は、江戸時代や明治時代の文章でよく見られる言葉で、「たくさん」「十分に」という意味があります。
例えば、「たんと食べなさい」という表現なら、「たくさん食べなさい」という意味になります。現代では日常会話で使う機会は減りましたが、方言や文学作品では現在でも見かけることがあります。
『吾輩は猫である』のような明治時代の作品では、登場人物や動物の話し方を自然に表現するため、このような古い言葉が使われています。
『吾輩は猫である』の文章を現代語にすると
「たんとでもねえが三四十はとったろう」は、現代の言葉にすると次のようになります。
「たいした数ではないが、それでも三十匹か四十匹くらいは捕まえただろう」
つまり、この猫は「自分はそれほど大したことをしたわけではない」と言いつつ、実際にはかなり多くの鼠を捕まえた経験があることを話している場面です。
まとめ:「たんとでもねえが」は控えめな数量表現
『吾輩は猫である』の「たんとでもねえが三四十はとったろう」は、「とんでもない」という意味ではなく、「たいした数ではないが」という意味の古い表現です。
また、「三四十」は「340」ではなく「30〜40程度」を表しており、鼠を三十匹から四十匹ほど捕まえたという内容になります。
この表現には、明治時代らしい控えめな言い回しや、猫が少し自慢しながらも謙虚に語るユーモアが込められています。古い文学作品では、単語だけでなく当時の言葉の感覚を知ることで、より深く作品を楽しむことができます。


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