夏目漱石の代表作『吾輩は猫である』には、猫の視点から人間社会を風刺する独特の表現が多く登場します。その中でも「肝心かんじんの母親さえ姿を隠してしまった」という一節は、読者にとって少し分かりにくい部分です。
この「母親」が誰を指しているのかを理解するには、作品冒頭の猫の生い立ちや、漱石が猫の視点をどのように利用しているかを確認する必要があります。
『吾輩は猫である』冒頭に登場する猫の生い立ち
「吾輩は猫である。まだ名前はない。」という有名な書き出しから始まる本作の主人公の猫は、生まれて間もない頃、人間の家に拾われるまでの過程を語っています。
主人公の猫は、もともと野良猫として生まれました。しかし、自分がどこで生まれたのか、どのような生活を送っていたのかについては、詳しく描かれていません。
そのため、猫自身の記憶や推測を通して、自分の幼少期が語られる形になっています。ここで登場する「母親」は、この猫を産んだ実の母猫を指しています。
「肝心の母親さえ姿を隠してしまった」の意味
問題の一節である「肝心かんじんの母親さえ姿を隠してしまった」は、猫が幼い頃に母猫とはぐれてしまったことを表しています。
つまり、ここでいう母親とは人間の登場人物ではなく、主人公である猫を産んだ母猫のことです。猫はまだ幼く、自分を守ってくれる存在である母親を必要としていましたが、その母親もいなくなってしまったという状況を語っています。
この表現には、猫が孤独な境遇に置かれたことを示す意味があります。同時に、人間の子どものような感情を猫に語らせることで、読者に親しみや哀れみを感じさせる効果があります。
なぜ夏目漱石は猫に「母親」という表現を使わせたのか
『吾輩は猫である』の特徴は、動物である猫が人間のように考え、話す点にあります。漱石は猫の目を通して、人間社会の矛盾や滑稽さを描きました。
猫が自分の出生や母親について語る場面も、単なる動物の話ではありません。人間と同じように、猫にも過去や孤独があるように描くことで、主人公に人格を与えています。
例えば、人間の場合でも幼い時に親とはぐれることは大きな出来事です。同じような経験を猫に重ねることで、読者は主人公の境遇を理解しやすくなります。
母猫は作品内でその後登場するのか
主人公の母猫は、この冒頭部分以降、物語の中心人物として登場することはありません。
そのため、読者が知ることができるのは、主人公の猫自身が語る過去の記憶だけです。どのような姿の猫だったのか、どのような性格だったのかなど、具体的な情報はほとんど描かれていません。
この点も、猫が孤独な存在として人間社会に入り込んでいくという作品の雰囲気を作っています。
「母親」という言葉が持つ作品上の意味
この母親という存在は、単なる猫の家族ではなく、主人公が失った安心できる場所の象徴とも考えられます。
生まれた場所や親を失った猫が、その後人間の家に入り、人間を観察する立場になるという流れは、作品全体のテーマにもつながっています。
つまり「肝心の母親さえ姿を隠してしまった」という一文は、猫の不幸な幼少期を説明するだけでなく、孤独な観察者としての「吾輩」というキャラクターを作る重要な場面なのです。
まとめ|『吾輩は猫である』の母親は主人公の猫を産んだ母猫
『吾輩は猫である』の「肝心かんじんの母親さえ姿を隠してしまった」に出てくる母親とは、主人公の猫を産んだ実の母猫のことです。
人間の登場人物ではなく、幼い猫が失った家族を指しており、この描写によって主人公の孤独な境遇が表現されています。
漱石は猫に人間のような感情や過去を与えることで、単なる動物の物語ではなく、人間社会を映し出す文学作品として『吾輩は猫である』を描いているのです。


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