古今著聞集「候は」の敬意の向きとは?菅原道真の文における敬語の解釈をわかりやすく解説

文学、古典

古典文法の読解では、敬語の「方向」が誰に対して向けられているのかが重要になります。特に『古今著聞集』のような説話文学では、主語や敬意の対象が文脈によって判断されるため、解釈に迷うことがあります。本記事では、菅原道真に関する一節に出てくる「候は」の敬意の向きについて整理します。

問題となる古文の一節

「菅丞相、昌泰三年九月十日の宴に、正三位の右大臣の大将にて内裏に候はせ給ひけるに」

この中の「候はせ給ひけるに」という表現が、誰に対する敬意なのかが論点になります。

特に「候ふ」という語は謙譲語・丁寧語として用いられるため、場面に応じた敬意の方向を正確に読み取る必要があります。

「候ふ」の基本的な意味と用法

「候ふ」は古語において非常に多機能な語であり、丁寧語として「〜でございます」に近い意味で使われる場合が多くあります。

また、補助動詞として動作の敬意を高める役割も持つため、単独ではなく「候はす」「候ふ+給ふ」などの形で登場することが多いです。

このため、誰に対して敬意を払っているかは文全体の構造から判断する必要があります。

この文における敬意の対象

「候はせ給ひける」は「内裏に候ふ」に対して「給ふ(尊敬)」が付いている形です。

ここでの「候ふ」は、動作としては「内裏にお仕えする」という意味を持ち、その動作主体である菅原道真を丁寧に表現しています。

したがって、「候は」は内裏(宮中)に対する敬意というよりも、文全体としては天皇を中心とした場における敬語表現の一部として機能しています。

筆者の視点と敬語の方向性

古文の敬語は「誰が誰に対して話しているか」を軸に考えることが重要です。

この場合、筆者は菅原道真の行動を高めて描写しているため、直接的な敬意の対象は人物(菅原道真)およびその行動が行われる場(内裏)に関連しています。

ただし、「候ふ」単体が内裏そのものに敬意を向けていると断定するのはやや不正確で、あくまで動作の丁寧化として働いていると考えるのが自然です。

まとめ

「候は」は特定の一点に敬意を向けるというより、宮中という場での動作を丁寧に表現するための語として用いられています。

そのため、内裏や帝に対する直接的な敬意というよりも、文体上の丁寧さや格式を示す働きが中心です。

古文の敬語は単語単体ではなく、全体構造の中で理解することが正確な読解につながります。

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