高校の古典授業で扱う『十訓抄 大江山』の一節では、定頼中納言が小式部内侍に対して「丹後へ遣はしける人(和泉式部)は参りたりや」と述べる場面があります。この文における尊敬語と謙譲語の使い分けは、日本語の敬語体系を理解する上で重要です。
この記事では、なぜ「遣はす」が尊敬語として定頼→小式部内侍に用いられ、謙譲語ではないのかを解説します。
敬語の基本的な仕組み
古典における敬語には大きく分けて尊敬語・謙譲語・丁寧語があります。尊敬語は相手の動作や状態を高めて表現する語で、謙譲語は自分や自分側の人の動作を低めて表現する語です。
つまり、誰が行為の主体か、そして誰に敬意を示すのかによって、語の選択が決まります。
『遣はす』の使われ方
この文では「遣はす」が小式部内侍の行為にかかっているように見えますが、実際には定頼中納言の指示を伝える表現です。定頼→小式部内侍の動作に対して尊敬語が用いられているのは、文脈上、定頼中納言が上位者であるため、下位の小式部内侍を丁重に表現しているためです。
一方、和泉式部は実際に遣わされた側であり、定頼中納言に対しては謙譲語が用いられますが、この文では話し手(小式部内侍)が定頼に近い立場から述べているため、和泉式部に対する謙譲語は用いられていません。
謙譲語にならない理由
謙譲語は自分または自分側の人間の行為をへりくだって表現する際に使われます。ここでは小式部内侍が定頼中納言に対して述べており、主体は定頼→小式部内侍の遣わしであるため、謙譲語は適用されず、尊敬語が用いられるのです。
つまり、「遣はす」は定頼中納言の命令・行為を尊重して小式部内侍に伝える形で表現されており、敬意の向きが主体に対して向いていることがポイントです。
具体例での理解
例えば、上司が部下に指示を出す場合、「○○をお取りください」と部下に対して尊敬語を使うことがあります。部下の行動に敬意を示すことで、間接的に上司の意図を丁重に伝える表現になります。これが古典の文法でも同様です。
和泉式部に対して謙譲語が使われないのは、文脈上、小式部内侍が定頼中納言に近い立場で述べているため、和泉式部は単に情報として登場しているだけだからです。
まとめ
『十訓抄 大江山』の「遣はしける人(和泉式部)」の文における敬語の使い分けは、主体と敬意の向きによって決まります。定頼→小式部内侍の動作には尊敬語が用いられ、和泉式部への謙譲語は用いられないのは、話し手の立場と文脈によるものです。
古典における敬語の理解には、誰に敬意を示すか、誰が主体かを意識することが重要です。


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