古文を読んでいると、「我」という言葉が出てきた時に、必ず作者や語り手自身を指すのか疑問に感じることがあります。現代語の「私」と同じ感覚で考えると迷いやすい表現の一つです。
特に説話文学では、作者が物語の登場人物の視点に入り込んで語ることがあり、「我」が作者ではなく、その場面の人物を指す場合があります。この記事では、古語の「我」の使われ方や、説話『閑居友』の例をもとに読み解き方を解説します。
古語の「我」は必ず作者や語り手を指すわけではない
古語の「我」は基本的には一人称を表す代名詞で、「私」「自分」という意味を持ちます。しかし、誰の立場から語っているのかによって指す人物は変化します。
地の文に「我」と書かれていても、それだけで作者自身を意味するとは限りません。物語や説話では、作者が登場人物の心情や発言を再現するため、その人物の視点から「我」と表現することがあります。
つまり、古文を読む際には「我」という単語だけを見るのではなく、その文章全体で誰が語っているのかを判断する必要があります。
説話文学では登場人物の視点に入り込む表現が多い
説話では、出来事を客観的に説明するだけでなく、登場人物の経験を生き生きと伝えるために、その人物の視点を取り入れることがあります。
例えば「ある僧がこう思った」「その僧はこう感じた」という内容を、作者がその僧の立場に立って「我」と表現することがあります。
これは現代文学でも見られる手法です。小説の三人称視点の文章の中で、登場人物の心の中を描写するのと似た働きをしています。
『閑居友』の「我もさめざめと泣きけり」の意味
『閑居友』の「我もさめざめと泣きけり」は、文脈上、その場面に登場する僧自身の心情を表したものと考えられます。
この場合の「我」は作者自身ではなく、物語内の人物である僧が自分自身を指している表現です。そのため現代語訳では「この僧自身もさめざめと泣いたのであった」と訳されています。
説話の語りでは、作者がその人物になりきるように表現することがあり、その結果として地の文の中に登場人物の一人称である「我」が現れることがあります。
古文の「我」を判断する時のポイント
古文で「我」が出てきた場合は、まず「誰がその場面の中心人物なのか」を確認することが大切です。
判断する際には、会話文なのか地の文なのか、直前まで誰について説明していたのか、敬語が誰に向けられているのかなどを見ると、指示対象を判断しやすくなります。
例えば「僧、山へ入りぬ。我、涙を流しけり」という文章なら、前後関係から「我」は僧自身を指す可能性が高くなります。
作者の「我」と登場人物の「我」の違い
古典文学では、作者自身が語り手として登場する場合もあります。その場合の「我」はもちろん作者や語り手本人を指します。
一方で、説話や物語では、作者が人物の体験を紹介するために、その人物の視点を借りることがあります。この場合、「我」は作者ではなく登場人物になります。
そのため、「地の文にある我=作者」と決めつけると、古文の解釈を誤ることがあります。文章全体の視点を読むことが重要です。
まとめ:古語の「我」は文脈によって指す人物が変わる
古語の「我」は基本的には「自分」を意味する一人称ですが、必ず作者や語り手を指すわけではありません。
説話文学では、作者が登場人物の視点に入り、その人物自身の「我」として表現することがあります。『閑居友』の「我もさめざめと泣きけり」も、その僧自身の心情を表した例です。
古文を正確に読むためには、「我」という単語の意味だけでなく、誰の視点で文章が語られているのかを確認することが大切です。


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