夏目漱石の『吾輩は猫である』を読んでいると、現在の日本語では読点を入れそうな場所に読点がない表現に出会うことがあります。「何そんな手数(てすう)のかかる事」という表現もその一つです。この記事では、「何そんな」の後に読点を付けない理由や、当時の文章表現、現代文との違いについて解説します。
「何そんな手数のかかる事」に読点がない理由
「何そんな手数のかかる事」という表現は、現代の感覚では「何、そんな手数のかかる事」と区切りたくなる人も多いでしょう。しかし、この文章では「何そんな」が一つのまとまりとして読まれています。
ここでの「何」は疑問を表す「なに」ではなく、驚きや呆れを表す副詞的な表現です。「どうしてそんな」「なぜそんなに」という意味に近く、「何、そんな」と相手を指し示すような区切りではありません。
つまり、「何そんな手数のかかる事」は「どうしてそんなに手間のかかることをするのか」という意味で、現代語に直すなら「なぜそんな手数のかかることを」という感覚になります。
「何、そんな」と読点を入れる場合との違い
「何、そんな」と読点を入れると、「何」と「そんな」が別々の言葉として扱われます。例えば会話で「何、そんなことを気にしているの?」と言う場合、「何?」という反応の後に「そんなこと」と続くため、間を示す読点が自然です。
一方、「何そんな手数のかかる事」の場合は、「何そんな」で一つの感情表現になっています。そのため、途中で区切らずに読む方が自然です。
例えるなら、「なんという大きな家だ」と言う時に「なん、という大きな家だ」と区切らないのと似ています。言葉同士の結びつきが強い場合、読点を入れないことがあります。
昔の文学だから読点の使い方が違うのか
明治時代の文学作品では、現在とは句読点の使い方に違いが見られます。明治期には現在ほど句読点のルールが統一されておらず、作者や出版社によって使い方にも幅がありました。
ただし、「昔の文学だから読点がない」というだけではありません。夏目漱石の文章でも、意味のまとまりや文章のリズムを考えて読点が置かれています。
漱石は会話の自然さや登場人物の感情を表現するために、現代の文法書とは少し違った句読点の使い方をしています。そのため、読点の有無は単なる古さではなく、文章表現の一部として考える必要があります。
夏目漱石の文章では読点がどのように使われているか
『吾輩は猫である』では、話し言葉に近い表現や独特の間の取り方が多く使われています。猫の視点から人間社会を観察する作品であるため、文章そのものにも語り口の特徴があります。
例えば、登場人物が驚いたり考え込んだりする場面では、読点や句点によって独特のテンポが作られています。逆に、一気に読ませたい部分では読点を少なくして流れるように表現することもあります。
そのため、「ここなら読点があるはず」と現代の感覚だけで判断すると、漱石が意図した文章のリズムを感じ取りにくくなる場合があります。
古典文学を読む時の読点の考え方
昔の文学作品を読む時は、現在の文章ルールだけで判断するのではなく、当時の表現や文脈を見ることが大切です。
読点は必ず意味の区切りを示すものではなく、読みやすさや話し手の感情、文章のリズムを表す役割もあります。
「何そんな手数のかかる事」の場合も、読点がないことで「何そんな」という驚きや呆れの感情が一続きに伝わる効果があります。
まとめ:「何そんな手数のかかる事」に読点がないのは自然な表現
『吾輩は猫である』の「何そんな手数のかかる事」に読点がないのは、単純に昔の文章だからという理由だけではありません。「何そんな」が一つの副詞的な表現として機能しており、意味のまとまりを優先して書かれているためです。
現代語では「何、そんな」と区切りたくなる場合もありますが、文章の意味や当時の表現を考えると、読点を入れない方が自然な場面もあります。
明治文学を読む際には、現在の句読点の感覚だけではなく、作者が作った文章のリズムや言葉の流れを味わうことが、作品をより深く理解するポイントになります。


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