老子十七章の「謂えり」と「思う」の違いとは?「皆我自然と謂えり」の意味を解説

文学、古典

『老子』第十七章に登場する「功成り事遂げて百姓、皆我自然と謂えり」という一節は、無為自然の思想を理解するうえで重要な表現です。しかし、現代日本語では「謂う(いう)」と「思う」が近い意味で使われることもあるため、この部分の解釈に迷う人も少なくありません。

この記事では、「謂う」と「思う」の意味の違いを整理しながら、老子がなぜ「思う」ではなく「謂う」という表現を使ったのか、その背景にある思想まで分かりやすく解説します。

老子十七章「皆我自然と謂えり」の意味

老子第十七章では、優れた統治者について四段階に分けて説明しています。その中で最も理想的な存在として、人々がその存在をほとんど意識しないような統治者が描かれています。

「功成り事遂げて百姓、皆我自然と謂えり」は、「功績が成し遂げられ、物事がうまく運んだとき、民衆は皆『自分たちが自然にそうなったのだ』と言う」という意味になります。

ここで重要なのは、民衆が「その指導者のおかげだ」と強く意識していない点です。老子は、理想的な政治とは人々を無理に導くのではなく、自然な流れの中で物事が整う状態だと考えました。

「謂う」と「思う」の基本的な違い

「謂う」と「思う」は、どちらも頭の中の判断や考えに関係する言葉ですが、働きが異なります。

「謂う」は、基本的には「言う」「称する」「そう表現する」という意味を持つ言葉です。つまり、心の中だけではなく、外に向けて言葉として表す行為を含みます。

一方、「思う」は、自分の内側で感じたり考えたりする精神活動を表します。必ずしも誰かに伝える必要はありません。

言葉 意味
謂う 考えや判断を言葉にして表現する、称する
思う 心の中で考える、感じる

例えば、「彼は正しいと言った」は「謂う」に近く、「彼は正しいと思った」は本人の内面的な判断を表しています。

なぜ老子は「思う」ではなく「謂う」と表現したのか

老子の文章で「謂う」が使われているのは、単に民衆の心の状態を説明しているのではなく、民衆が実際にそう口にする様子を描いているためです。

もし「皆我自然と思えり」とすると、「民衆は心の中で自分たちの力で自然にそうなったと感じた」という意味になります。しかし「謂えり」とすることで、民衆が「これは自然にそうなったのだ」と語り合う姿が表現されています。

老子が描いているのは、支配者の存在が前面に出ず、人々自身が自由に生活している状態です。そのため、単なる内面の感覚よりも、人々の発言として表される「謂う」の方が思想に合っています。

古典中国語における「謂」の特徴

漢文における「謂」は、現代日本語の「言う」よりも幅広い意味を持っています。「〜と呼ぶ」「〜と考える」「〜とみなす」という意味で使われることがあります。

そのため、「謂う」を単純に「声に出して話す」とだけ理解すると、古典の意味を十分に捉えられない場合があります。

『老子』の場合、「我自然と謂えり」は「自分たちは自然にそうなったのだと認識し、そのように表現する」というニュアンスで読むと理解しやすくなります。

「自然」という言葉の意味にも注意が必要

この一節での「自然」は、現代日本語でいう「偶然に」「勝手に」という意味とは少し異なります。老子思想における「自然」は「おのずからそうであること」を意味します。

つまり民衆は、「誰かに命令されたから成功した」と考えるのではなく、「物事が本来の流れに従って整った」と感じているのです。

この考え方が、老子の中心思想である「無為自然」につながっています。人為的な干渉を減らし、自然な調和を重視する考え方です。

まとめ

老子十七章の「皆我自然と謂えり」における「謂う」は、「思う」ではなく、人々がそう認識し、言葉として表現することを意味しています。

「思う」は個人の内面的な判断を示しますが、「謂う」は他者に伝える表現や評価を含む言葉です。老子は、人々が自然な状態の中で「自分たちで成し遂げた」と語る姿を描くために「謂う」という表現を選んでいます。

この違いを理解すると、『老子』が説く無為自然の思想や、理想的な統治のあり方をより深く読み取ることができます。

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