『閑居友』の「我もさめざめと泣きけり」は誰を指す?主語判定の読み方を解説

文学、古典

古典文学を読む際に難しいポイントの一つが、文章中の「我」「彼」「人」などの指示語が誰を指しているのかを判断することです。『閑居友』の一節にある「我もさめざめと泣きけり」も、前後関係を正しく読むことで、その人物を特定できます。この記事では、この「我」がなぜさかまたぶりの僧を指すと判断できるのか、古文読解の視点から詳しく解説します。

『閑居友』の一節で問題となる部分

問題の箇所は、説法を聞いた人々の様子を描いた場面です。

「さて、説法いひ知らずいみじく、『昔の富楼那尊者、形を隠して来たり給へるか』などいひあつかふほどに侍りけり。我もさめざめと泣きけり。この導師すべかりつる人も、雨しづくとなきけり。」

この部分では、ある僧の説法が非常に素晴らしく、人々が感動している様子が描かれています。その中で「我もさめざめと泣きけり」という文が登場します。

古文の「我」は直前の人物とは限らない

古文では、「我」という一人称が出てきた場合、必ずしも文章の最初の主人公や筆者を指すとは限りません。誰がその場面で発言・行動しているのかを、前後の内容から判断する必要があります。

今回の場合、「我もさめざめと泣きけり」の直前には「いひあつかふほどに侍りけり」とあり、説法を聞いた人々の反応が述べられています。そして、その中の一人として「我」が登場しています。

つまり、この「我」は文章を書いている作者ではなく、その場にいた人物の視点から語られていると考える必要があります。

「我」がさかまたぶりの僧だと判断できる理由

「我」がさかまたぶりの僧だと判断するポイントは、その場面の中心人物と語り手の関係です。

この話では、まず導師の説法を聞いた人物として、さかまたぶりの僧が登場しています。その僧は、説法の素晴らしさに深く感動し、自分自身も涙を流した人物として描かれています。

そのため、「我もさめざめと泣きけり」の「我」は、直前まで話題の中心となっていたさかまたぶりの僧自身を指すと読むことができます。

「も」が示す意味にも注目する

この文を読むうえでは、「我も」の「も」に注目することも重要です。「も」は、あるものに加えて別のものも含める意味を表します。

直後には「この導師すべかりつる人も、雨しづくとなきけり」とあります。ここでは、導師であるべきほどの人物も涙を流したことが述べられています。

つまり、「我も泣いた。そして、この素晴らしい導師も泣いた」という流れになっており、最初に泣いた「我」は導師以外の人物、つまり説法を受けた側の僧であることが分かります。

古文の主語を判断する方法

古文で主語を判断するときは、単に直前の単語を見るだけではなく、以下の点を確認することが大切です。

・誰がその動作をする立場なのか
「泣く」「見る」「思う」などの動詞を誰が行うのが自然なのかを考えます。

・話題の中心人物は誰か
古文では、文章中で中心になっている人物が省略された主語になることが多くあります。

・助詞や敬語表現を見る
「も」「ぞ」「なむ」などの助詞や敬語の向きから、人物関係を判断できます。

まとめ

『閑居友』の「我もさめざめと泣きけり」の「我」がさかまたぶりの僧だと分かるのは、前後の文脈から判断できるためです。

この場面では、説法を聞いた僧が感動して泣いた後、さらに導師も涙を流したという流れになっています。また、「我も」の「も」が、導師とは別の人物が先に泣いていたことを示しています。

古文の主語判定では、単語だけを見るのではなく、人物関係や文章全体の流れを読むことが重要です。

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