古典文法の「会話文中で尊敬語がある場合、主語は一人称にならない」の意味を具体例で解説

文学、古典

古典文法を学習していると、敬語の識別で「会話文中で尊敬語が使われている場合、その主語は一人称にならない」というルールに出会うことがあります。このルールは、敬語の方向を判断するうえで非常に重要な考え方です。

この記事では、この表現が何を意味しているのか、主語とは誰を指すのか、具体的な古文の例を使いながら分かりやすく解説します。

「会話文中で尊敬語がある場合、主語は一人称にならない」とは

このルールでいう「主語」とは、その尊敬語が表している動作の主体(誰がその動作をしているか)を指します。

つまり、「話している人」という意味ではなく、「尊敬語で表されている動作を実際に行っている人物」のことです。

そして、一人称とは「私」「私たち」など、話し手自身を表す言葉です。尊敬語は基本的に、話し手が相手や第三者を高めるために使う表現なので、自分自身の動作には通常使いません。

なぜ尊敬語の主語は一人称にならないのか

尊敬語は、動作をする人物を高める敬語です。例えば、「先生がいらっしゃる」という場合、「いらっしゃる」という尊敬語によって先生を高く表現しています。

しかし、自分自身の行動について「私はいらっしゃる」と言うことはありません。自分を高める表現になってしまうため、古典でも基本的には不自然になります。

そのため、会話文の中で尊敬語が登場した場合、その動作の主語は「話し手本人(私)」ではなく、話し手が敬意を向けている相手や第三者であると判断できます。

具体例①「帝、御覧ず」

例えば、次のような文を考えてみます。

「帝、御覧ず。」

「御覧ず」は「見る」の尊敬語です。この場合、「御覧ず」という動作をしているのは「帝」です。

現代語にすると、「帝がご覧になる」となります。帝が自分自身を指しているわけではなく、話し手が帝を敬って表現しています。

具体例②会話文で考える場合

会話文の中で、例えば家臣が話している場面を考えます。

「殿は、もうお帰りになられました。」

この場合、「お帰りになられました」という尊敬表現の主語は「殿」です。話している家臣自身ではありません。

もし家臣が「私はお帰りになられました」と言った場合、自分自身を敬う表現になってしまうため不自然です。

主語は「話している人」なのか「尊敬語を受ける人」なのか

この疑問で混乱しやすい点は、「会話文の主語」と「話者」が同じとは限らないことです。

例えば、家臣が「殿がおいでになりました」と話している場合、話している人は家臣ですが、尊敬語「おいでになる」の主語は「殿」です。

つまり、このルールで考える主語とは、会話をしている人物ではなく、尊敬語が表している動作の主語になります。

古典敬語の主語判定で大切なポイント

古文では、現代文のように主語が明確に書かれていないことが多いため、敬語が重要な手がかりになります。

尊敬語があれば、「その動作をしている人は身分が高い人物ではないか」と考えることができます。一方で、謙譲語の場合は、動作をする人と敬意を向ける相手が異なります。

例えば、「参る」という謙譲語なら、動作主は身分の低い側で、相手を立てている表現になります。尊敬語と謙譲語の違いを理解すると、主語判定がしやすくなります。

まとめ:尊敬語の主語は話者ではなく動作をする人物

「会話文中で尊敬語がある場合、主語は一人称にならない」というルールは、尊敬語の性質から考えると理解しやすくなります。

ここでいう主語とは「話している人」ではなく、「尊敬語で表された動作をしている人物」です。

尊敬語は自分自身を高めるためには基本的に使わないため、会話文中で尊敬語が出てきた場合は、その主語は「私」ではなく、敬意を向けられている相手や第三者だと判断すると、古文読解で役立ちます。

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