夏目漱石の『吾輩は猫である』には、現代ではあまり使われない表現や読み方が登場します。そのため、文章中の「暮に」という言葉をどのように読むのか迷う人も少なくありません。
この記事では、『吾輩は猫である』に出てくる「あの水仙は暮に」という表現について、「暮に」の読み方や意味、作品の中でどのようなニュアンスで使われているのかを分かりやすく解説します。
「暮に」は「くれに」と読む
『吾輩は猫である』の「あの水仙は暮に」という部分の「暮に」は、「くれに」と読みます。
「暮(くれ)」は、夕方や日が沈む頃、または一日の終わり頃を表す言葉です。「暮に」は「夕方に」「日暮れ時に」という意味になります。
現代の文章では「夕方に」「日暮れに」と書くことが多いため、「暮に」という表現は少し古風に感じられるかもしれません。しかし、明治時代の文学では自然に使われていた表現です。
「暮(くれ)」という言葉の意味
「暮」は、もともと太陽が沈んで暗くなる時間帯を表す言葉です。「日暮れ」「夕暮れ」「暮六つ」などにも使われています。
例えば、「夕暮れの庭」という場合は、昼から夜へ移り変わる時間帯の庭を意味します。同じように「あの水仙は暮に」という表現では、水仙が夕方の時間帯にどのような状態だったのかを描写しています。
「暮」という一文字には、単に時間を示すだけでなく、静けさや風情を感じさせる文学的な響きがあります。
なぜ「暮に」を「くれに」と読むのか
日本語では、漢字一字に複数の読み方があります。「暮」の場合、「ぼ」と読む音読みのほかに、「くれる」「くれ」という訓読みがあります。
この文章のように時間を表す場合は訓読みの「くれ」が使われます。「暮に」は「くれに」となり、「夕方頃に」という意味になります。
例えば、「春の暮に訪れる」という文章なら「春の夕方頃に訪れる」という意味になります。このように、季節や時間と組み合わせて使われることもあります。
『吾輩は猫である』に見られる明治文学の表現
『吾輩は猫である』では、現在ではあまり聞かない言葉や言い回しが多く登場します。これは作者の夏目漱石が、明治時代の日本語の豊かな表現を取り入れていたためです。
現代語では簡単な言葉に置き換えられる表現でも、当時の文学では細かな情景や雰囲気を伝える役割がありました。
「暮に」という表現も、単に「夕方」と書くよりも、時間の移ろいや落ち着いた雰囲気を感じさせる言葉として使われています。
文学作品の古い表現を読むときのポイント
古典や近代文学を読むときは、現在の感覚だけで判断すると意味が分かりにくい場合があります。その時代では一般的だった言葉や読み方を知ることで、作品をより深く楽しめます。
例えば、「暮」「宵(よい)」「暁(あかつき)」などは、時間帯を表す美しい日本語ですが、日常会話では使用頻度が減っています。
分からない言葉が出てきた場合は、漢字の意味だけでなく、前後の文章や当時の文化背景を見ることが大切です。
まとめ
『吾輩は猫である』の「あの水仙は暮に」の「暮に」は、「くれに」と読みます。
意味は「夕方に」「日暮れ時に」であり、明治時代の文学らしい風情のある表現です。現代ではあまり使われない言葉ですが、作品の雰囲気や情景を味わうためには重要な表現の一つです。


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