夏目漱石の代表作『吾輩は猫である』には、猫の視点で語られる独特の表現が数多く登場します。その中でも「何だかしくしく云うようだが……」という部分は、誰が話しているのか分かりにくい表現のひとつです。この記事では、この場面の意味や発言者について、作品の流れを踏まえて解説します。
『吾輩は猫である』に登場する三毛子とは
『吾輩は猫である』に登場する三毛子(みけこ)は、主人公である猫「吾輩」が出会う雌猫です。吾輩にとって気になる存在であり、猫同士の会話や関係性を描く場面で登場します。
三毛子は、吾輩が人間社会を観察する中で関わる猫の一匹であり、単なる動物の登場人物ではなく、猫の世界や感情を表現する役割を持っています。
そのため、三毛子が登場する場面では、猫同士の会話や様子が描かれることが多く、読者が「誰の発言なのか」と迷いやすい部分もあります。
「何だかしくしく云うようだが……」の意味
「何だかしくしく云うようだが……」という表現は、三毛子が実際に発言しているセリフというより、語り手である吾輩が相手の様子や声を表現している部分として読むのが自然です。
ここで使われている「しくしく云う」は、人間の言葉で明確に話すという意味ではなく、猫の鳴き声や弱々しい様子を、吾輩が人間的な表現に置き換えて説明しているものです。
つまり、文章上は吾輩が語っており、その中で三毛子の様子を「しくしく言っているようだ」と描写していると考えられます。
『吾輩は猫である』は猫の視点で書かれている
この作品の大きな特徴は、主人公の猫自身が一人称で物語を語っている点です。「吾輩」という言葉も、本来は人間が使うような表現ですが、漱石は猫に語らせることで人間社会を風刺しています。
そのため、作中の会話や描写では「誰が話しているのか」を考える時に、発言者だけでなく、語り手である吾輩がどのように見ているかを確認することが重要です。
例えば、人間の会話を書いた小説なら「○○が言った」と判断できますが、『吾輩は猫である』では猫の観察記録のように描かれるため、地の文と会話の境界が独特になっています。
三毛子の気持ちを表した表現として読むこともできる
「しくしく云う」という表現は、三毛子の感情や弱々しい鳴き方を表現したものでもあります。そのため、読者によっては「三毛子がしくしく言っている」と感じる読み方もできます。
ただし、文法的には三毛子自身が直接セリフを発しているというより、吾輩が三毛子の様子を観察して説明している場面と考える方が分かりやすいでしょう。
文学作品では、このように語り手の視点を通して登場人物の感情が表現されることがあります。『吾輩は猫である』では、猫である吾輩の解釈を通して世界が描かれている点が魅力のひとつです。
夏目漱石が猫を語り手にした理由
夏目漱石は、猫という人間とは異なる存在を語り手にすることで、人間社会を客観的に描きました。
猫は人間のように社会的な立場や名誉を気にする必要がないため、作品内では人間の行動や考え方を皮肉に観察する役割を果たしています。
三毛子とのやり取りも、単なる猫同士の会話ではなく、人間関係や感情の機微を猫の世界に置き換えて表現している部分があります。
まとめ
『吾輩は猫である』の「何だかしくしく云うようだが……」という部分は、三毛子が直接語っているセリフというより、語り手である吾輩が三毛子の様子を表現している箇所と考えられます。
ただし、内容としては三毛子の鳴き方や感情を表しているため、「三毛子がしくしく言っている」と読むこともできます。
この作品では、猫である吾輩の視点を通して登場人物や動物の様子が描かれているため、発言者だけでなく「誰の目を通して描かれているか」に注目すると、より深く作品を楽しむことができます。


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