鑑真の目は見えていたのか?西村公朝氏と森本長老の有名な逸話の出典と背景を解説

美術、芸術

唐招提寺に伝わる鑑真和上像をめぐって、「鑑真は本当に失明していたのか」という議論があります。特に、東京藝術大学名誉教授で仏像研究家の西村公朝氏と、唐招提寺の森本孝順長老との間で交わされたとされる「日本で二番目」という有名なやり取りは、鑑真像の見方を考える上で興味深い逸話として知られています。

この記事では、この逸話の内容や背景、鑑真の視力に関する説、そして関連する書籍や資料について整理して紹介します。

鑑真の目が見えていたという説が生まれた理由

鑑真(がんじん)は奈良時代に中国・唐から日本へ渡り、日本の仏教発展に大きな影響を与えた高僧です。5度の渡航失敗を経験しながらも来日を果たし、唐招提寺を建立した人物として知られています。

一般的には、鑑真は日本へ渡る途中で視力を失ったとされています。失明した時期については諸説ありますが、苦難の航海や高齢による身体的な衰えが原因だったと考えられています。

しかし、唐招提寺に安置されている国宝「鑑真和上坐像」の表情を見ると、閉じられたまぶたの奥に強い精神性や生命感が表現されており、「本当に完全な失明者の姿として作られたのか」という疑問を持つ研究者もいました。

西村公朝氏と森本長老の「日本で二番目」の逸話

質問にある「長老、日本で二番目や」という会話は、鑑真像について西村公朝氏が「鑑真の目は見えていたのではないか」という趣旨の発言をした際の逸話として紹介されています。

それに対して唐招提寺の森本孝順長老が「あんた、えらいこと言うたなあ、それを言うたのは日本で二番目や」と答え、「一番目は誰ですか」と聞かれると「わしや」と返した、というユーモラスなやり取りです。

この話は、単なる冗談ではなく、鑑真像を見る人が感じる疑問や、長年像を守ってきた唐招提寺側の深い理解を表した逸話として語られています。

この逸話の出典について

この会話については、広く紹介されているものの、新聞記事や公刊された一次資料として明確に確認できる出典は限られています。

西村公朝氏の著作や仏像解説書、講演記録、唐招提寺関係者への聞き書きなどの中で紹介された可能性がありますが、現在流通している情報だけでは、どの書籍のどの箇所が初出なのかを特定することは難しいとされています。

仏像研究や寺院関係者の証言は、論文のような形式だけでなく、講演や対談、随筆などを通じて伝えられることも多いため、この種の逸話は複数の媒体で少しずつ広まることがあります。

西村公朝氏が注目した鑑真像の表現

西村公朝氏は仏像修理や研究に携わった専門家で、仏像の形だけではなく、制作された背景や作者の意図を読み解く研究でも知られています。

鑑真和上坐像についても、単純に「目を閉じた老人の像」と見るのではなく、像の表情や顔の造形から、精神的な力や内面的な視覚の存在を読み取ろうとしました。

仏像における「見る」という表現は、物理的な視力だけを意味するわけではありません。仏教では智慧の目や心の目という考え方もあり、鑑真像の眼差しには深い精神性が込められていると解釈されています。

鑑真は本当に失明していたのか

史料上では、鑑真が日本へ渡る頃には視力を失っていたという記述が多く見られます。しかし、「完全に光を感じなかったのか」「一時的に視力が残っていたのか」については、現代医学的に確認することはできません。

当時の記録では、鑑真が失明したことは強調されていますが、現代のような医学的診断が存在したわけではありません。そのため、視力の状態を細かく判断することは難しい部分があります。

「目が見えていた」という説は、歴史的事実を覆すというよりも、鑑真像の表現力や人物像の解釈から生まれた考察として理解するのが適切です。

まとめ|鑑真像をめぐる逸話は仏像を見る楽しさを伝えている

西村公朝氏と森本長老の「日本で二番目」という逸話は、鑑真の目や鑑真像への深い関心から生まれた興味深い話です。

現時点では、この会話の正確な初出となる書籍や資料を特定することは難しいものの、唐招提寺で長く語り継がれてきた逸話の一つとして知られています。

鑑真和上坐像は、単に歴史上の人物を再現したものではなく、その精神や生き方を表現した仏像です。目が見えていたかどうかという問いも、像に込められた生命力や人間性を考えるきっかけになると言えるでしょう。

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