夏目漱石の代表作「吾輩は猫である」には、現在ではあまり使われなくなった表現が多く登場します。そのため、文章の雰囲気は理解できても、細かな言葉の意味が分かりにくい部分があります。
作中の「いやこれは駄目だと思ったから眼をねぶって運を天に任せていた」という一節にある「眼をねぶって」という表現も、現代の読者には少し分かりづらい言葉です。この記事では、この言葉の意味や文脈での役割について解説します。
「眼をねぶって」の意味とは
「眼をねぶって」とは、「目を閉じて」という意味です。「ねぶる」は古い日本語で、現代でいう「眠る」「目を閉じる」という意味で使われていました。
つまり、「眼をねぶって」は単純に目を閉じる動作を表しているだけではなく、目を閉じて何も見ないようにする、あるいは現実から一時的に逃れるようなニュアンスも含まれています。
現代の言葉に置き換えると、「目を閉じて」「じっとして」「成り行きに任せて」といった意味になります。
「眼をねぶって運を天に任せていた」の意味
この一節の「眼をねぶって運を天に任せていた」は、「目を閉じて、自分ではどうすることもできないので、あとは運に任せていた」という意味になります。
主人公は何か危険な状況や困難な場面に直面し、「これはもう駄目だ」と判断したため、自分から積極的に行動するのではなく、結果を運に委ねようとしているのです。
例えば、試験で全く分からない問題が出たときに、考えても答えが出ず、最後は鉛筆を転がして決めるような状態を想像すると分かりやすいでしょう。
「ねぶる」はどのような言葉なのか
「ねぶる」は古い日本語の表現で、現代の日常会話ではほとんど使われません。古典文学や昔の文章では、「眠る」「目を閉じる」という意味で登場することがあります。
例えば、「まぶたを閉じて眠る」という場面で「目をねぶる」と表現したり、何かを見ないようにする場面で使われたりします。
現在では「目をつぶる」という表現が一般的になっています。「目をつぶる」には、実際に目を閉じる意味だけでなく、「問題を見なかったことにする」「許す」という意味もありますが、「眼をねぶる」は主に視覚的な動作として使われます。
夏目漱石が「眼をねぶって」と表現した理由
夏目漱石は、「吾輩は猫である」の中で、当時の日本語や文学的な表現を多く用いています。「眼をねぶって」という表現も、単なる「目を閉じた」ではなく、文章に独特の味わいを与えています。
猫である主人公が、人間の世界を少し距離を置いて観察しているという作品の特徴を考えると、「眼をねぶる」という表現には、あきらめや皮肉のような雰囲気も感じられます。
もし「目を閉じた」とだけ書かれていた場合、動作の説明にとどまりますが、「眼をねぶって」と表現することで、古風で少しユーモラスな印象が生まれています。
「目をつぶる」と「眼をねぶる」の違い
「目をつぶる」と「眼をねぶる」は似た意味ですが、使われる場面や印象が異なります。
| 表現 | 意味・印象 |
|---|---|
| 眼をねぶる | 目を閉じる、眠るように目を閉じる古風な表現 |
| 目をつぶる | 目を閉じる、または見逃す・許すという意味でも使われる |
例えば、「疲れて眼をねぶる」は自然ですが、「悪事に目をつぶる」のような使い方は「ねぶる」では表現できません。
このように似た言葉でも、時代や場面によって使い分けがされています。
まとめ
「吾輩は猫である」の「眼をねぶって」とは、「目を閉じて」という意味の古い表現です。
一節全体では、「もう駄目だと思ったので、目を閉じて結果を運に任せていた」という意味になり、主人公が自分ではどうにもできない状況を受け入れている様子を表しています。
夏目漱石の作品には、現代では使われない言葉が多く登場しますが、その一つひとつの表現には当時の日本語ならではの味わいがあります。「眼をねぶって」のような言葉を理解すると、「吾輩は猫である」をより深く楽しむことができます。


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