古文の敬語は主語だけで決まらない?同じ人物に敬語が付く場合と付かない場合の理由を解説

文学、古典

古文の敬語を学習していると、「同じ人物が主語なのに、ある場所では敬語が使われ、別の場所では使われていないように見える」という疑問を持つことがあります。現代語の感覚では、目上の人には常に敬語を使うように思えるため混乱しやすい部分です。

しかし、古文の敬語は単純に人物の身分だけで決まるものではありません。誰の動作を誰が見ているのか、誰に対する敬意なのかによって使い分けられています。この記事では、古文敬語の基本的な考え方と、主語が同じでも敬語の有無が変わる理由を分かりやすく解説します。

古文敬語は「主語」ではなく「動作の向き」で考える

古文の敬語で最も大切なのは、「誰が偉い人か」だけを見るのではなく、「誰の動作に敬意を向けているか」を考えることです。

例えば、尊敬語は動作をする人物を高める表現です。一方、謙譲語は動作の相手を高める表現です。同じ人物が登場していても、その人物が動作主なのか、動作を受ける側なのかによって敬語の種類が変わります。

そのため、「この人は身分が高いから全部敬語になる」と考えると、古文の敬語では間違いやすくなります。

例文「右大臣には、六条院の東の大殿磨きしつらひて、限りなくよろづをととのへて待ちきこえたまふに」の敬語

この文では、「右大臣には」という部分が重要です。「には」は対象を示しており、右大臣を迎える準備をしている場面だと分かります。

「待ちきこえたまふ」の部分を見ると、「きこえ」と「たまふ」という2つの敬語表現があります。

「きこゆ(聞こゆ)」は古文では謙譲語として使われることが多く、「お待ち申し上げる」という意味になります。つまり、待つという行為を右大臣に対して行っているため、右大臣を高めています。

一方、「たまふ」は尊敬語で、待っている人物自身を高めています。このように、1つの文の中で複数の敬意の方向が存在することがあります。

同じ主語なのに敬語が付かないように見える理由

古文では、すべての動作に必ず敬語が付くわけではありません。文章を書く側が、その動作を特に敬意を示す必要があるものとして扱うかどうかで変わります。

例えば、身分の高い人物が「歩く」「座る」などの日常的な動作をしている場合でも、作者がその人物を高めたい場面では「歩きたまふ」のように敬語を付けます。

反対に、その人物について単純に状況説明をしているだけの場合、敬語が省略されることもあります。これは現代語でも、文章や会話の場面によって敬語の使用量が変わるのと似ています。

古文敬語で重要な「敬語の省略」という考え方

古文では、文章全体の流れから敬意が分かる場合、敬語が毎回繰り返されないことがあります。

例えば、同じ場面でずっと帝や貴族について説明している場合、読者が誰に敬意を向けるべきか理解しているため、毎回同じ敬語を付ける必要がない場合があります。

また、和歌や物語文学では、表現を簡潔にするために敬語が省略されることもあります。

古文敬語を読む時のコツ

古文敬語を読む時は、まず主語を探し、その次に「その動作は誰に向かっているのか」を確認すると理解しやすくなります。

例えば、「申し上げる」「お仕えする」「参る」のような言葉が出た場合は、動作をしている人よりも、その相手が重要になります。

逆に「〜たまふ」「おはす」などが出た場合は、動作をしている人物が高められている可能性が高くなります。

まとめ|古文敬語は人物の身分だけでなく敬意の方向を見る

古文で同じ主語なのに敬語が付いたり付かなかったりするように見えるのは、敬語が人物そのものではなく、その場面での敬意の向きによって決まるためです。

「誰が偉いか」だけで判断せず、「誰が誰に対して動作をしているのか」「作者は誰を高めているのか」を考えることが、古文敬語を理解するポイントです。

例文のように尊敬語と謙譲語が同時に使われることもあるため、敬語を見つけたら必ず動作主と相手を確認する習慣をつけると、古文読解の精度が上がります。

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