夏目漱石の『吾輩は猫である』には、現代の日本語とは少し違う言い回しや、句読点の位置によって意味が分かりにくく感じる表現が登場します。その中でも「毛をもって装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶だ」という一文は、猫の姿を面白く描写した重要な場面です。この記事では、この文章の意味や「第一毛」の読み方、句読点を入れた場合の理解しやすさについて解説します。
「毛をもって装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶だ」の意味
この文章は、猫である「吾輩」が自分自身の顔について語っている場面です。本来、猫の顔には毛が生えていて、それが自然な姿であるはずなのに、自分の顔は毛がなく、つるつるしていて、まるで薬缶(やかん)のように見える、と表現しています。
つまり簡単に言い換えると、「猫の顔なら毛で覆われているはずなのに、自分の顔は毛がなくて、金属製のやかんのようにツルツルしている」という意味になります。
ここでは本当に猫の顔が完全につるつるという意味ではなく、猫自身が自分の姿を少し大げさに、ユーモラスに表現しているところがポイントです。漱石は猫の視点を借りて、人間社会や自分自身を皮肉に描いています。
「第一毛」は「第一、毛」ではなく文章のつながりで読む
質問の中にある「第一毛をもって」という部分は、現代の感覚では「第一、毛」と読点を入れたくなるかもしれません。しかし、この部分は「第一」という意味ではありません。
原文では「第一毛をもって」ではなく、「第一、毛をもって」と区切るような読み方ではなく、文章全体の流れから「毛をもって装飾されべきはずの顔」という部分につながっています。
古い文章では現在のように句読点が整備されていない場合もあり、読者が文脈から意味を判断する必要があります。「第一」という言葉として読むと意味が通らなくなるため、「毛をもって」が一つのまとまりだと考えると理解しやすくなります。
「毛をもって装飾されべきはずの顔」の文法を解説
「毛をもって装飾されべきはずの顔」は、現代語にすると「毛によって飾られているはずの顔」という意味です。
それぞれ分解すると、「毛をもって」は「毛によって」、「装飾されべき」は「飾られるべき」、「はずの顔」は「当然そうなっているはずの顔」という意味になります。
例えば、人間が「髪の毛があるべき頭がつるつるしている」と言われた場合、通常とは違う状態を面白く表現していることになります。それと同じように、猫として当然あるはずの毛がないことを強調しているのです。
なぜ「薬缶(やかん)」に例えているのか
薬缶は表面が滑らかで光沢のある金属製の道具です。そのため、「つるつるしているもの」の代表として当時の人々には分かりやすい例えでした。
現代なら「金属のボール」や「鏡のように光るもの」などに例えるかもしれませんが、明治時代には薬缶は身近な生活用品でした。そのため、猫の顔を薬缶に例えることで、読者に強い印象と面白さを与えています。
また、猫が自分の顔を薬缶に例えるという発想自体が、漱石独特のユーモアです。普通なら猫が自分を客観的に評価することはありませんが、猫に人間のような考え方をさせることで作品のおもしろさが生まれています。
『吾輩は猫である』におけるこの表現の意味
この一文は単なる猫の外見描写ではなく、作品全体の特徴である「猫の視点から人間を見る」という仕掛けを示しています。
猫は人間から見れば小さな存在ですが、漱石は猫に人間以上の観察力や批評精神を持たせています。そのため、自分の顔についても冷静かつ皮肉な表現を使っています。
このような少し大げさで面白い言葉遣いが、『吾輩は猫である』の魅力の一つです。現代語訳だけを見るよりも、当時の文章表現を味わうことで漱石のユーモアをより深く感じることができます。
まとめ:「毛をもって装飾されべきはずの顔」は猫らしさとの違いを表した表現
「毛をもって装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶だ」という表現は、「猫なのだから毛で覆われているはずの顔が、つるつるしていて薬缶のように見える」という意味です。
「第一、毛」と区切る必要はなく、「毛をもって」という表現として読むことで自然に理解できます。古い文学作品では句読点だけに頼らず、文章全体の意味を見ることが大切です。
夏目漱石は、このようなユーモラスな比喩を使いながら、猫の視点を通して人間社会を描きました。この一文も、『吾輩は猫である』らしい独特の表現と言えるでしょう。


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