中島敦の『山月記』を読んで、「袁傪(えんさん)って妙にメロくない?」と感じた人は意外と少なくありません。
高校教材として触れたときには難解な漢文調の作品に見えても、大人になって読み返すと、李徴との距離感や言動に独特の“情”や“執着”を感じる読者もいます。
近年はSNSを中心に、「山月記、実は関係性文学では?」「袁傪が良すぎる」という感想も増えており、古典文学を“感情面”から読み解く楽しみ方が広がっています。
この記事では、『山月記』の袁傪がなぜ“メロい”と言われるのかを、作品内容や心理描写から考察していきます。
そもそも「メロい」とはどういう意味か
まず、「メロい」は現代ネットスラングです。
単純な「かっこいい」「かわいい」ではなく、
- 感情を揺さぶられる
- 情緒がある
- 関係性が深い
- 切なさや色気を感じる
といったニュアンスで使われることが多い言葉です。
つまり、「袁傪メロい」という感想は、“袁傪の感情や李徴との関係性に情緒を感じる”という意味に近いと言えるでしょう。
袁傪は李徴を最後まで見捨てなかった
『山月記』の中で最も印象的なのは、虎になった李徴と袁傪の再会場面です。
普通なら、夜道で突然虎に遭遇した時点で逃げ出しても不思議ではありません。
しかし袁傪は、相手が旧友の李徴だと知ると、恐怖よりもまず対話を選びます。
しかも彼は、李徴の自尊心や苦悩を理解しようとしながら、静かに話を聞き続けます。
この「最後まで向き合う姿勢」が、現代読者には非常に“情が深い”人物として映るのです。
李徴との距離感が絶妙すぎる
袁傪の魅力は、ただ優しいだけではありません。
李徴を必要以上に憐れまず、かといって突き放しもしない、その絶妙な距離感にあります。
例えば李徴は、自分の詩を後世に残してほしいと頼みます。
これはかなり重いお願いですが、袁傪はそれを静かに受け止めます。
ここで過剰に感動演出をしないところが、逆に深い情を感じさせます。
現代風に言えば、「相手の面倒くさい部分まで理解して受け止めている」関係性なのです。
“理解者ポジション”としての袁傪
『山月記』の李徴は、自尊心の高さと劣等感に苦しみ続けた人物です。
他人を見下したい気持ちと、認められたい気持ちが同時に存在しており、それが彼を孤独に追い込みました。
そんな李徴に対して、袁傪は数少ない“理解者”として描かれています。
だからこそ読者は、「李徴は袁傪に会えてよかった」と感じますし、袁傪側にも強い情緒を見出します。
特に、李徴が最後に詩を託す相手が袁傪だったという事実はかなり重要です。
現代SNS文化と『山月記』の相性
最近『山月記』が再評価される理由の一つに、SNS時代との相性があります。
現代では、
- 承認欲求
- 才能コンプレックス
- SNS疲れ
- 自己肯定感の低さ
などに共感する人が増えています。
李徴の苦悩は、現代人にもかなり刺さるのです。
そして、その苦悩を静かに受け止める袁傪は、“理想の理解者”として見られやすい存在になっています。
「メロい」は恋愛だけではない
面白いのは、「メロい」という感覚が必ずしも恋愛感情ではない点です。
袁傪と李徴の間には恋愛描写はありません。
しかし、
- 旧友としての信頼
- 言葉にしない感情
- 別れの切なさ
- 理解しきれない他者への共感
などが濃く描かれており、それが現代読者の感性に強く刺さります。
いわゆる“関係性が良い”作品として読まれているのです。
国語教材なのに感情が重い文学作品
『山月記』は高校国語の定番教材ですが、実際にはかなり感情の重い作品です。
単なる「人間はプライドに気をつけましょう」という教訓話ではなく、
- 才能への執着
- 孤独
- 他者理解
- 自己崩壊
など、人間の内面が非常に濃く描かれています。
だからこそ、大人になってから読むと印象が変わる人も多いのです。
まとめ
『山月記』の袁傪が“メロい”と言われる理由には、李徴との深い関係性や、静かな理解者としての立ち位置があります。
恐怖より対話を選び、最後まで李徴の言葉を受け止めた姿に、現代読者は強い情緒を感じています。
また、SNS時代の「承認欲求」や「才能コンプレックス」と李徴の苦悩が重なることで、作品全体がより現代的に読まれている面もあります。
『山月記』は国語教材でありながら、今読むと“感情の文学”として非常に味わい深い作品なのです。


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