『平家物語』六道語りの現代語訳と解説

文学、古典

『平家物語』における「六道語り」は、非常に深い感情と宗教的な意義が込められた部分です。ここでは、特に「学文」や「尚ほ」「何を以て」といった表現が使われており、その意味を現代語に翻訳し、使われ方について解説します。

現代語訳

この文章は、非常に感慨深い言葉であり、作者の深い思索と宗教的な信仰が感じられます。現代語訳は次の通りです。

学問について言うと、苦しくてつらいことがあるが、このような辛い目に遭いながらも、どんな方法で生死を超越できるのかと少しばかり考えを巡らせている。惜しい命ならば、朝晩それを嘆くことはない。寝ても起きても忘れられないのは、先帝の顔であり、心の乱れが終わる前に悲しみが湧いてくる。それは極楽浄土に行けることを喜びとし、この人々に後れを取ったことは、悲しみの中の一つの喜びである。その理由は、五障三従の身を脱し、すぐに釈尊の弟子となり、誇りを持って比丘尼として名を汚し、他力本願の称名を信じ、三時に六根すべての罪を懺悔し、九品の浄土に入ることを喜ぶことだ。これが一門の別れのためにではなく、正しい知識を得るためである。

「尚ほ」「何を以て」の使い方

「尚ほ」は、さらに続けて何かをする、またはさらに別のことを加えるという意味で使われる表現です。ここでは、前の悲しみや苦しみを述べた後で、「さらに何か」を加える意味で使われています。英語で言うところの「furthermore」や「moreover」に近い使い方です。

「何を以て」は、「どのようにして」「何をもって」という意味で、何かをする方法や手段を尋ねる際に使います。この文章では、生死を超えるための方法を問う形で使われています。

平家物語における宗教的背景とその意義

「六道語り」は、仏教的な教えや極楽浄土への願いが込められており、この部分を通じて、登場人物たちの心情や宗教的信念が強く表れています。特に「極楽浄土」という言葉からは、死後の世界に対する深い信仰と願いが感じられます。

また、この文章では「後れを取ったこと」や「別れ」など、死後の世界と現世の別れに関するテーマが扱われており、仏教的な解釈を持った人々にとって非常に重要な意味を持つ部分です。

まとめ

『平家物語』の「六道語り」は、宗教的信仰、悲しみ、そして極楽浄土への願いが込められた深い意味を持っています。「尚ほ」「何を以て」という表現を通じて、文中で何を強調し、どのような感情が表現されているのかを理解することができます。このような古典文学を深く学ぶことは、当時の人々の信仰心や思想を知る上で非常に貴重なことです。

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