「我思う、ゆえに我あり」という言葉は、デカルトの有名な名言であり、西洋哲学における自己認識の基礎を成すものです。一方で、仏教の唯識論では、すべてのものに「我」は存在せず、すべてが無我であるとされています。これらを合わせて考えた場合、デカルトはどのように答えるのでしょうか?また、我が思うのか、それとも他の力により思わされているのかという問いについて、デカルトはどう答えるのかを考察します。
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という名言は、自己認識を最も基本的な真理として示すものです。彼はすべての存在を疑い、「考える自分」の存在を確証しました。この言葉は、自己の存在を認識するための出発点として、近代哲学の基盤を作り上げたのです。
唯識論と「無我」の考え方
一方、仏教の唯識論では「無我」の教えが中心となっており、自己というものは存在しない、すべては流転し、変化し続けるものだと考えます。すなわち、唯識論の立場から見ると、デカルトの「我あり」の思想は、無我の観点からは誤解であると言えるかもしれません。自己というものを強調することが、仏教的には錯覚に過ぎないという立場です。
デカルトの反応:無我と自己認識
もしデカルトが唯識論を聞いたとしたら、彼は自己認識の重要性を強調し、仮に自分が「無我」であると考えたとしても、思考や存在の認識そのものを疑うことはできないと言うでしょう。彼にとって「我思う」という考えが揺るぎない証拠だからです。
デカルトは、仮に「我」が実際に存在しなくても、思考する自我が存在する限り、その思考こそが存在の証であるとし、唯識の無我の考えに対してもそれを否定することなく、異なる視点からの理解を試みるかもしれません。
「我が思うのか、他に思わされているのか?」という問いについて
次に「我が思ったのか、我ならざるものによって思わされているのか」という問いについて考えると、デカルトは基本的に「自分が考えている」という自己認識が最も重要であると主張するでしょう。彼は、「自分が思考する主体である」として、思考が自我の存在を証明すると考えていました。しかし、この問いを唯識論の観点から解釈すると、「思わされている」という視点もあるかもしれません。唯識論的には、「我」や「主体」というものは幻影であり、すべてが意識の作用であるため、他の力に「思わされている」という捉え方も可能です。
まとめ
デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は自己認識を基盤にした強力な哲学的主張ですが、仏教の唯識論のように「無我」の教えを持つ立場から見ると、自己の存在や思考そのものが幻想であるという考え方になります。この違いを踏まえると、デカルトは自己認識の重要性を否定しないものの、「我」の存在そのものを疑う立場を取るかもしれません。また、「我が思うのか、他に思わされているのか」という問いに関しては、デカルトはやはり自己の思考を中心に置くため、「自分が思考している」と答えるでしょう。しかし、唯識論のような視点を取り入れることで、自己の思考に対する新たな理解が生まれることも考えられます。
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