宮原浩二郎による「変身に伴う快楽と恐れー山月記を通して」という論文は、芥川龍之介の「山月記」を通じて、変身というテーマを深く探求しています。しかし、この論文には論理的なつながりに破綻が見られる部分があります。この記事では、その破綻の点を掘り下げて説明していきます。
「山月記」の概要と宮原浩二郎の論旨
まず、芥川の「山月記」のあらすじを簡単に振り返ると、物語は詩人である李徴が虎に変身するという奇異な状況を描いています。宮原浩二郎は、この変身を「快楽と恐れ」の二重性で解釈し、その象徴性を論じています。彼の主張の中心は、李徴が変身することで「自由」と「孤独」への解放と同時に、それに伴う恐怖が生じるというものです。
しかし、この解釈には論理的な不整合や、テーマの取り扱い方に一貫性が欠けている点が見受けられます。
論理的破綻の第一の要因:快楽と恐れのバランスの不明瞭さ
宮原は「快楽と恐れ」という対比を示す一方で、そのバランスについての説明が曖昧です。特に、李徴が変身した際に感じる「快楽」と「恐れ」の両方を論じていますが、どちらが主であるかが明確に描かれていません。
変身後の李徴が感じる快楽は、彼の過去の詩人としての悩みから解放されるという点では理解できますが、その「快楽」がどのように恐れと結びつくのかが論理的に十分に示されていないため、読者にとってはそのつながりが不自然に感じられます。
論理的破綻の第二の要因:解釈の一貫性の欠如
また、宮原は「山月記」のテーマとして変身が「自己との対峙」や「孤独の深さ」を象徴すると述べていますが、これは李徴の心情と直接的に結びつくものではありません。李徴が変身後に感じる恐れは、単に外的な変化への反応であり、彼の内面の深層に関する洞察には限界があります。
宮原はその解釈を通じて李徴の心の変化に焦点を当てようとしていますが、変身後の彼の行動や感情がどのようにそのテーマに適合するのかが示されておらず、論理的なつながりが不完全であると言わざるを得ません。
論理的破綻の第三の要因:変身の象徴性の扱い方
宮原が扱う「変身」というテーマ自体も、論文全体を通じて一貫した解釈が欠けています。彼は変身を単なる肉体的な変化としてではなく、精神的・哲学的な象徴として論じていますが、その具体的な解釈があいまいです。
「山月記」における変身は、むしろ李徴の内的葛藤や彼自身の変化を象徴するものとして理解されるべきです。しかし、宮原はそれを哲学的に抽象化しすぎてしまい、その象徴性が読者にとって理解しづらいものとなっています。
まとめ
宮原浩二郎の「変身に伴う快楽と恐れー山月記を通して」の論理的な破綻は、主に快楽と恐れのバランスが不明瞭であり、解釈が一貫していない点にあります。また、変身の象徴性についての取り扱いが抽象的であり、物語の核心に迫るには十分でないと言えます。こうした点を改めることで、より強固な論理的なつながりが生まれるでしょう。
コメント