更級日記「物語の多く候ふなる」の文法解析と解釈について

文学、古典

「更級日記」に出てくる「京にとく上げたまひて、物語の多く候ふなる、ある限り見せたまへ。」という文について、語句の解釈が難しいという質問が寄せられています。この文の中で「物語の」という部分に関する疑問が生じており、その「の」が格助詞の主格の用法か、同格の用法かという点が問題になっています。この記事では、この文法的な問題を詳細に解説します。

1. 「物語の」の「の」の用法について

質問者が気になっている「物語の」の「の」は格助詞の主格か、同格かという問題ですが、この文脈では同格の用法が適当です。主格の場合、物語が動詞「候ふ」の主語として機能しなければなりませんが、この文脈では「物語」という名詞が動作の主語ではなく、前に述べられている内容を補足する役割を担っていると考えられます。

同格の用法では、「物語の多く」という表現が「物語がたくさんある」といった意味で使われているため、文全体の構造に整合性があります。

2. 「なる」の連体形の用法

「なる」の連体形がどのような用法を持つかについても疑問が生じているようです。この場合、「なる」の連体形は、準体法として使われています。準体法は名詞を修飾するため、「物語が多くなる」という状態を示すために使われています。

「なる」の連体形は、名詞に直接つながることが多く、ここでは「物語が多くなる」という結果を示しているわけです。このような使い方は、古典文学において一般的な文法表現の一つです。

3. 「こと」の用法と係り受け

次に、質問にある「たくさんありますということ」の「こと」がどのように文の中で機能しているのかについて説明します。「こと」はこの文脈では、「物語がたくさんある」という内容全体を指すために使われています。つまり、「こと」は文全体を受けている名詞的な役割を果たしており、その内容を指し示しています。

この「こと」は文法的に「名詞化」を意味しており、文中で「物語が多くなること」や「物語がたくさんあること」といった形で使われています。

4. 解釈の考察と他の解釈の可能性

同格の解釈についての疑問ですが、この文は同格の準体法として解釈するのが最も自然です。「物語で、たくさんあると言います物語を」という解釈は、確かに文法的に可能ですが、少し不自然に感じられる部分もあります。なぜなら、「物語の多く候ふなる」という表現は、やはり物語の内容が「多くあること」を示しているため、そのまま直訳的に理解するのが適切です。

そのため、「物語がたくさんあるということ」と解釈するのが最もスムーズであり、同格にすることに違和感があるのは、この文脈における「物語」の使い方に由来していると言えるでしょう。

5. まとめ

「更級日記」の「物語の多く候ふなる」という部分について、主格ではなく同格として解釈するのが適切であることが分かりました。また、「なる」の連体形は準体法として使われ、「こと」は名詞化の役割を果たしていることも確認できました。この文法的な解釈を基に、質問者が求めていた疑問が解消されたことを願います。

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