「漂洋过海而来」という表現が示す通り、この銀箱はただの遺物ではなく、非常に興味深い背景を持っています。南越文王墓から出土したこの銀箱は、2000年以上も南国の土地に深く埋まっていましたが、驚くべきことに「made in China」ではなく、むしろ波斯(古代ペルシャ)からの輸入品であるとされているのです。
銀箱の特徴と波斯からの可能性
この銀箱が波斯から来たとされる理由は、主にその形状、装飾、そして製造技法に基づいています。南越文王墓の銀箱の形状や装飾は、当時の中国の金属器皿のスタイルとは明らかに異なっており、古代波斯帝国の金銀器には似たようなものが見られるのです。特に、波斯帝国では金属器の表面に彫りや金属打ち出し技法を使用することが一般的でした。
中国と波斯の金属加工技法の違い
公元前、中国では金属器に立体的な模様を施す技法として青銅花纹の鋳造技術が一般的でした。しかし、同時期の波斯帝国では、金属器に「錘揲技法」(ハンマーで金属を打ち出す技法)が広まっており、この技法は金や銀の柔らかさと延展性を活かして様々な形を作り出していました。この技法は、南越文王墓の銀箱の表面に見られる凸面模様にも使用されており、波斯の影響が色濃く反映されています。
海上シルクロードと貿易の影響
当時、越国は積極的に海外貿易を行っており、南越文王墓の銀箱も海上シルクロードを通じて波斯から伝わった可能性があります。波斯の文化や技術は、交易を通じて中国にも影響を与え、物品が国境を越えて流通することは珍しいことではありません。この銀箱が持ち込まれた過程を理解することで、当時の国際的な交流や貿易の重要性が明らかになります。
古波斯アケメネス朝の金碗との関連
また、波斯のアケメネス朝時代の金碗のような金銀器との類似性も、この銀箱が波斯からの輸入品である証拠となります。これらの金銀器は、波斯帝国の文化的な影響を色濃く反映しており、そのデザインや技法は当時の中国の金属器とは明らかに異なっています。
まとめ
この南越文王墓の銀箱が波斯から来たことを示す証拠として、形状や装飾技法、さらにはその背景にある海上シルクロードを通じた貿易の影響が挙げられます。このような物品が中国に伝わることで、当時の文化交流や技術移転の重要性を深く理解することができ、歴史的な視点から見ても非常に興味深い発見です。
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