ら抜き言葉は本当に「ら」を抜いただけ?一段活用の五段化という変化から考える日本語の仕組み

日本語

「食べれる」「見れる」「来れる」などの表現は、一般に「ら抜き言葉」と呼ばれています。しかし、実際の日本語の変化を見ると、単純に元の形から「ら」を取り除いただけでは説明できない面があります。

ら抜き言葉は、日本語の活用体系の中で起きている変化の一つであり、一段活用の動詞が五段活用のような使われ方へ近づいている現象として捉えることもできます。この記事では、ら抜き言葉がどのように生まれたのか、文法的にはどのような変化なのかを分かりやすく解説します。

ら抜き言葉とは何か

ら抜き言葉とは、可能を表す助動詞「られる」を使うべき場面で、「ら」を省いた形を使う現象です。

例えば、「食べられる」が本来の形とされる一方で、「食べれる」という表現が広く使われています。同様に、「見られる」が「見れる」、「起きられる」が「起きれる」になるケースもあります。

ただし、「ら抜き」という名前から「単純に文字を一つ削っただけ」と考えると、日本語の変化の実態とは少し異なります。

ら抜き言葉は単純な省略では説明できない

「食べられる」から「食べれる」への変化を見ると、表面的には「ら」がなくなったように見えます。しかし、話者が行っていることは単なる省略ではなく、可能表現の作り方そのものを変化させていると考えられます。

日本語の動詞には、五段活用、一段活用、不規則活用などがあります。一段活用の動詞では、従来「食べる」に「られる」を付けて「食べられる」としていました。

しかし、現代では「食べる」に可能の形を直接作る感覚で「食べれる」とする話者が増えています。これは一段活用動詞に対して、新しい可能形のルールが作られていると見ることができます。

一段活用の五段化とはどのような現象か

ら抜き言葉を説明する際に、一段活用の動詞が五段活用的な変化をしているという見方があります。

五段活用の動詞では、可能表現を作る場合に「読む→読める」「書く→書ける」のように、語尾を変化させて可能形を作ります。この仕組みでは「られる」を使いません。

一方で「食べる→食べれる」「見る→見れる」のような形は、一段活用の動詞にも五段活用に近い直接的な可能形を作る仕組みが広がったものと考えられます。

なぜ「ら抜き言葉」が広まったのか

ら抜き言葉が広まった理由の一つは、可能と受け身、尊敬、自発の区別を分かりやすくするためだと考えられています。

例えば「先生に見られる」という表現は、文脈によって「先生が見る」という意味なのか、「見ることができる」という意味なのか分かりにくい場合があります。

そこで「見れる」を可能専用の形として使うことで、「見ることができる」という意味を明確に伝えられるという利点があります。

ら抜き言葉は日本語の乱れなのか

ら抜き言葉については、「日本語の乱れ」として否定的に扱われることもあります。しかし、言語学的には、言葉の変化の一つとして研究されています。

日本語は昔から変化を続けてきました。例えば、過去には現在では使われない表現が一般的だったり、発音や文法の仕組みが変化したりしてきました。

現在では「見れる」「食べれる」などを自然な表現として使う人も多く、特に会話では広く定着しています。一方で、文章や正式な場面では「見られる」「食べられる」を使うことが望ましい場合もあります。

ら抜き言葉を理解するときのポイント

ら抜き言葉を理解する上で重要なのは、「間違った日本語」とだけ考えるのではなく、日本語の文法体系が変化している現象として見ることです。

実際には、「ら」を抜いているというよりも、可能表現を作る新しいパターンが生まれていると考えるほうが、日本語の仕組みに近い説明になります。

例えば、「食べれる」という表現を使う人は、「食べられる」という形から一文字削っている意識ではなく、「食べることができる」という意味を表す一つの動詞の形として使っている場合が多いのです。

まとめ

ら抜き言葉は、単純に元の正しい形から「ら」を取り除いたものではなく、日本語の活用や可能表現の仕組みが変化した結果として生まれたものです。

特に一段活用の動詞が、五段活用の動詞のように直接可能形を作る方向へ変化しているという見方は、ら抜き言葉を理解する上で重要なポイントです。

言葉は時代とともに変化します。ら抜き言葉も、日本語が現在進行形で変わっていることを示す一例として見ることができます。

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