日記・随筆の地の文に尊敬語が出た場合、主語は作者にならない?敬語表現の考え方を解説

文学、古典

日記や随筆などの文章を読む際、地の文に尊敬語が使われていると「その動作の主体は誰なのか」「作者自身を敬っている表現になることはあるのか」と疑問に感じることがあります。特に古典文学や文学作品では、現代の日記とは異なる敬語の使われ方も見られます。

この記事では、日記・随筆における地の文の尊敬語と主語の関係について、敬語の基本的な仕組みや例文を交えながら分かりやすく解説します。

尊敬語は基本的に動作主を高める表現

尊敬語とは、動作や状態の主体となる人物を高く扱うための敬語表現です。つまり、尊敬語が使われている場合、その動作をしている人物は話し手や書き手から見て敬意を向ける対象であることが多くなります。

例えば「先生がお話しになる」という文では、「お話しになる」という尊敬表現によって、話している人物である先生が敬われています。

そのため、現代の一般的な文章において、作者自身の行動を地の文で尊敬語によって表すことは通常ありません。自分自身を高める表現になるため、不自然に感じられる場合が多いためです。

日記・随筆の地の文では作者以外が主語になることが多い

日記や随筆の地の文で尊敬語が使われている場合、多くの場合、その主語は作者以外の人物です。作者が他者について書いている場面では、その人物への敬意を示すために尊敬語が用いられます。

例えば、「先生は昨日、私の家を訪ねてくださった」という文章では、訪問した人物である先生を敬う表現になっています。この場合、尊敬語の対象は先生であり、作者ではありません。

このような理由から、「日記・随筆の地の文で尊敬語が出てきた場合、主語が作者であることは基本的にない」という考え方は、現代日本語の感覚ではおおむね正しいと言えます。

ただし古典文学では例外的な使われ方がある

注意が必要なのは、古典文学や歴史的な文章では、現代とは敬語の仕組みが異なる場合があることです。

古典では、作者自身を直接高めているように見える表現が存在することがあります。しかし、これは単純に「自分を尊敬している」という意味ではなく、天皇や神仏、身分の高い人物との関係や、文章の視点によって敬語が決まっている場合があります。

例えば、宮廷文学や日記文学では、作者が仕えている人物や高貴な存在を中心に敬語体系が組み立てられているため、現代の敬語感覚だけでは判断できません。

地の文の尊敬語を判断するときは主語だけでなく視点を見る

文章中の尊敬語の主語を判断するときは、単に「尊敬語があるから作者ではない」と決めるのではなく、誰の視点から書かれているかを確認することが大切です。

特に随筆では、作者が自分の経験を書いていても、途中で他人の行動を描写することがあります。その場合、その人物に対して尊敬語が使われることがあります。

例えば、「私は部屋で待っていると、先生がお越しになった」という文章では、作者は「待っている人」ですが、「お越しになった」という尊敬語の主体は先生です。

作者自身に尊敬語が使われるように見える場合の注意点

文章によっては、作者自身の行動に尊敬語が付いているように見えるケースがあります。しかし、その場合は本当に作者自身を敬っているのではなく、別の人物の視点や引用表現である可能性があります。

例えば、第三者が作者について書いた文章や、誰かの発言を引用している文章では、作者自身が登場人物として扱われるため、尊敬語が使われることがあります。

また、古典では作者と語り手が完全に一致しない場合もあるため、「日記だから必ず作者=語り手」と考えないことも重要です。

まとめ

日記や随筆の地の文で尊敬語が使われている場合、現代日本語の基本的な考え方では、その主語が作者自身であることはほとんどありません。尊敬語は通常、作者以外の人物を高めるために使われます。

ただし、古典文学や特殊な文脈では、敬語の仕組みや視点が現代とは異なるため、単純なルールだけでは判断できません。

文章を読む際は、尊敬語があるかどうかだけではなく、「誰が誰に対して敬意を向けているのか」「文章の視点はどこにあるのか」を確認することで、正確に主語を読み取ることができます。

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