夏目漱石の「吾輩は猫である」を読むと、現代の日本語とは少し違う読み方や表現に出会うことがあります。「一切」を「いっさい」と読むのか、「ひときれ」と読むのか迷うような表現も、その時代の日本語を知ることで理解しやすくなります。
この記事では、明治文学で使われた独特の読み方や表現、「吾輩は猫である」に登場する言葉の意味を、具体例を交えながら解説します。
明治文学では現代と違う読み方の言葉が多く登場する
「吾輩は猫である」が発表されたのは明治38年(1905年)で、現在とは日本語の使われ方が大きく異なる時代でした。
当時は漢字の読み方や表記が現在ほど統一されておらず、同じ漢字でも文脈によって現代とは違う読み方をすることがありました。
そのため、明治時代の文学作品では、漢字だけを見ると現在の一般的な読み方をしてしまい、意味が通じなくなることがあります。文章全体の流れから判断することが重要です。
「一切(ひときれ)」は現代の「いっさい」とは別の意味
「一切」という漢字は、現代では「一切関係ない」のように「いっさい」と読むことが多く、「全部」「何もかも」という意味で使われます。
しかし、昔の日本語では「一切(ひときれ)」という読み方もありました。この場合は、物を一つに切り分けたもの、つまり「一片」「一切れ」という意味になります。
例えば、「カステラが一切れ残っている」という文章では、カステラが全部あるという意味ではなく、切り分けられた一つの部分が残っているという意味になります。
漢字の読み方は文脈によって決まる
日本語では、漢字の読み方を判断するとき、文字だけを見るのではなく前後の文章を読むことが大切です。
例えば「一切」という言葉でも、「一切を任せる」という場合は「いっさい」と読み、「カステラ一切」という場合は「ひときれ」と読む可能性があります。
このように、同じ漢字でも意味によって読み方が変わることを「熟字訓」や当時の慣用的な読み方として見ることができます。
「吾輩は猫である」に多い明治時代特有の表現
「吾輩は猫である」には、「一切」のような読み方だけでなく、現代ではあまり使われない言葉や言い回しも多く登場します。
例えば、「〜である」「〜ぬ」「〜ならん」といった表現は、明治時代の文章では自然な言葉でしたが、現在の日常会話ではほとんど使われません。
また、「気が着かぬ」のように、現在では「気が付かない」と書く表現でも、当時は別の漢字を使うことがありました。
明治文学を読む時は現代語の感覚だけで判断しない
古い文学作品を読む際に大切なのは、現在の日本語の常識だけで意味を決めつけないことです。
例えば「一切」を見てすぐに「いっさい」と読むと、文章によっては意味が不自然になる場合があります。その時は、前後の内容から別の読み方を考える必要があります。
明治文学は、現代日本語の基礎になった時代の文章です。当時の言葉の特徴を知ることで、登場人物の会話や作者の表現意図をより深く理解できます。
「吾輩は猫である」を楽しむための読み方のコツ
「吾輩は猫である」を読む時は、分からない漢字が出てきてもすぐに現代の読み方を当てはめず、文章全体の意味を考えることが大切です。
特に食べ物、生活道具、昔の習慣に関する言葉は、現在とは意味や使い方が変化しているものが多くあります。
例えば「カステラ一切」のような表現も、当時の日本語の感覚を知ることで、猫の視点から描かれるユーモラスな場面をより正確に味わうことができます。
まとめ
「吾輩は猫である」では、明治時代特有の読み方や表現が多く使われているため、現代の感覚だけでは分かりにくい部分があります。
「一切(ひときれ)」のような読み方は、当時の日本語では自然なものであり、文章の流れによって意味を判断する必要があります。
明治文学を読む時は、漢字の一般的な読み方だけに頼らず、時代背景や文脈を意識することで、作品本来の面白さをより楽しむことができます。


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