デカルト哲学を読むと、「思考すること」と「思われるもの(思考の対象)」の関係が複雑に感じられることがあります。特に「思考すること」の中に「思われるもの」や「思考の働き」が含まれるという説明は、一見すると以前説明された対立関係と矛盾しているように見えます。
しかし、哲学における「思考」や「対象」という言葉は、日常的な意味とは少し異なる使われ方をします。この記事では、デカルト哲学における思考の構造を整理しながら、「思考すること」と「思われるもの」がどのような関係にあるのかを解説します。
デカルト哲学における「思考」とは何か
デカルトにおいて「思考すること(cogitatio)」とは、単純に頭の中で何かを考える行為だけを意味していません。見ること、疑うこと、想像すること、感じること、理解することなど、意識に現れるあらゆる精神活動を含んでいます。
つまり、デカルトにとって思考とは「意識の働き全体」を指す広い概念です。そのため、現代の日常語でいう「考える」という意味だけで理解すると、哲学的な議論では混乱が生じます。
例えば、目の前にリンゴがあるとき、「リンゴについて考える」という行為だけでなく、「赤いと感じる」「存在すると判断する」といった精神活動もデカルト的には思考に含まれます。
「思考」と「思われるもの」は本当に対立しているのか
質問の中で感じられている違和感は、「思考」と「思われるもの」が最初は対になって説明されていたのに、後で「思考すること」の中に「思われるもの」が含まれているように見える点にあります。
ここで重要なのは、「思考」と「思われるもの」は同じレベルの概念ではないということです。思考は意識の働きであり、思われるものは、その働きの中で現れる内容や対象です。
つまり、「見る」という働きと「見られているもの」は区別できますが、実際の視覚経験では切り離すことができません。同じように、思考という活動と、その中で現れる対象も区別しながら結びついています。
「思考すること」の中に対象が含まれるという意味
「思考すること」の中に「思われるもの」が含まれるという表現は、対象そのものが思考と同じものになるという意味ではありません。
これは、思考という精神活動が必ず何らかの内容を伴っているという意味です。例えば、「何かを考える」という場合、その「何か」が完全になく、ただ考えるという作用だけが存在するわけではありません。
具体的には、「三角形について考える」という場合、そこには考えるという働きだけではなく、「三角形」という思考内容が同時に現れています。このように、思考作用とその内容は区別されますが、経験の中では一体となっています。
観念としての「思考」を理解することが重要
デカルト哲学を理解する際には、「思考」という言葉を単なる行為としてではなく、「意識に現れるもの全体を含む観念」として捉える必要があります。
デカルトが重要視したのは、外側の世界が本当に存在するかを疑っても、疑っている自分の思考そのものは否定できないという点でした。ここから有名な「我思う、ゆえに我あり」という考えにつながります。
この場合の「思う」とは、単なる頭の中の作業ではなく、自分の意識に何かが現れている状態全体を指しています。
哲学では概念同士が内部に関係を持つことがある
哲学の議論では、ある概念とその対になる概念が必ず完全に分離しているとは限りません。むしろ、互いを成立させる関係として考えられることがあります。
例えば、「主体」と「対象」、「見るもの」と「見られるもの」は区別されますが、片方だけでは成立しません。見るという行為があるから見られるものが現れ、見られるものがあるから見るという行為が成立します。
そのため、「思考」と「思われるもの」も、対立する二つの物ではなく、意識経験を構成する二つの側面として理解すると整理しやすくなります。
まとめ|デカルトの「思考」は対象を含む意識活動として理解する
デカルト哲学における「思考すること」は、単なる考える行為ではなく、感じることや理解することなどを含む幅広い意識活動です。
「思考」と「思われるもの」は区別される概念ですが、実際の意識経験では常に結びついています。そのため、「思考すること」の中に「思われるもの」が含まれるという表現は、矛盾ではなく、思考が内容を伴う活動であることを示しています。
哲学書を読む際には、日常的な言葉の意味だけで判断せず、その哲学者がどのような意味で概念を使っているのかを確認することが理解への近道になります。


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