古代和歌を読んでいると、「似た表現が別の歌にも出てくる」と感じることがあります。
特に有名なのが、「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今を春べと 咲くやこの花」と、額田王の歌に見られる「冬ごもり」「春来れば」という季節転換の表現です。
こうした類似を見て、「額田王は難波津の歌を知っていたのか」「本歌取りなのか」と考える人も少なくありません。
この記事では、両歌の成立時期や古代歌謡との関係、本歌取り概念の問題などを整理しながら考察します。
「難波津に咲くやこの花」とはどんな歌か
「難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今を春べと 咲くやこの花」は、『古今和歌集』仮名序に登場する非常に有名な歌です。
一般には王仁(わに)による歌と伝えられています。
古来、和歌の始まりを象徴する歌として扱われてきました。
歌の意味
「冬の間こもっていた花が、今こそ春だと言わんばかりに咲いている」という内容です。
春到来の喜びを象徴的に詠んだ歌として知られています。
特徴的な表現
- 「冬ごもり」
- 「春べ」
- 「咲くやこの花」
これらは後世の和歌でも繰り返し用いられる重要な季節語・歌語になりました。
額田王の歌との共通点
質問にある額田王の歌では、「冬ごもり」「春さりくれば」など、春への転換を示す表現が見られます。
そのため、「難波津」の歌との共通性を感じる人が多いのです。
共通するイメージ
| 難波津の歌 | 額田王の歌 |
|---|---|
| 冬ごもり | ふゆごもり |
| 春べ | はるさりくれば |
| 花が咲く | 花が咲く |
いずれも「冬から春へ」「花が開く」という古代和歌に典型的な季節構造を持っています。
ただし、現代的な意味での「本歌取り」と断定するのは慎重であるべきだとされています。
そもそも額田王は「難波津」の歌を知っていたのか
ここで重要なのは、歌の成立年代の問題です。
額田王は7世紀の人物ですが、「難波津」の歌は後世に整理・記録された可能性があります。
そのため、「現在知られる完成形を額田王が知っていた」とは断定できません。
古代和歌は口承文化だった
当時の和歌は、現代のように書物で固定されていたわけではなく、口承で広まる性格が強くありました。
つまり、似た季節表現や歌い回しが共有されていた可能性があります。
特に宮廷歌人の間では、一定の歌語や季節表現が共通財産だったと考えられています。
完全な引用ではなく「伝承的共有」の可能性
現代でいう引用やオマージュというより、古代歌謡の共有表現に近いと見る研究者もいます。
つまり、「冬ごもり→春→花が咲く」という流れ自体が、当時広く存在した美的感覚だった可能性があります。
本歌取りという概念は古代にも当てはまるのか
本歌取りという言葉は、主に平安後期以降の和歌技法として語られます。
有名歌を踏まえながら、新しい歌を作る高度な技法です。
そのため、7世紀の額田王の歌に対して、そのまま本歌取り概念を適用することには慎重論があります。
古代和歌では「共有表現」が多い
- 春と花
- 秋と紅葉
- 冬ごもり
- 山・鳥・霞
こうした表現は多くの歌で繰り返し登場します。
つまり、特定歌を引用したというより、共通の歌語世界を共有していた面が大きいのです。
もし伝わっていたとしたら何を経由したのか
仮に「難波津」の原型的な歌が額田王以前から存在した場合、伝承経路としては宮廷歌謡や口承が考えられます。
当時は漢詩文化も発達していましたが、日本語の歌は宴席や儀礼、口伝によって共有されることが多くありました。
また、地方歌謡や祝賀歌が宮廷に取り込まれていく過程もありました。
考えられる伝承経路
- 宮廷歌人同士の口承
- 宴席歌
- 祝賀歌
- 地方伝承の集約
現在のように「作者固定・文章固定」の感覚とはかなり異なっていた可能性があります。
まとめ
額田王の歌と「難波津に咲くやこの花」には、確かに「冬ごもり」「春」「花が咲く」という共通構造があります。
ただし、現代的な意味で「額田王が難波津の歌を引用した」と断定するのは難しく、古代歌謡に共通する季節表現を共有していた可能性が高いと考えられます。
また、本歌取りという概念自体が後世に体系化されたものでもあるため、古代和歌には「伝承的共有表現」という視点で見ることも重要です。
古代和歌を読む面白さは、こうした歌語の連続性や、日本語の美意識の長い継承にもあると言えるでしょう。


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