古文「発心集」西行法師の娘の出家シーンと「聞こえぬ」の解釈

文学、古典

「発心集」の西行法師の娘の出家に関する古文の問題で、最後の部分の「しばしはとかくいへやりけれど、日ごろ経れば、かくれなく聞こえぬ。」の解釈に悩んでいる方が多いです。この文の「聞こえぬ」を「漏れ聞こえた」と解釈するのか、それとも「申し上げた」という意味に取るべきかについて、正しい解釈を解説します。

「しばしはとかくいへやりけれど」の解釈

「しばしはとかくいへやりけれど」という部分は、乳母がしばらくの間、あれこれと(冷泉院に)事情を説明していた様子を示しています。このフレーズは、乳母が冷泉院に対して状況をうまく説明していたことを意味していますが、時間が経つにつれて、その隠していた事実が知られることになることを予感させています。

「とかくいへやりけれど」は、乳母が言い訳をしたり、事情を伝えようとする様子を表すもので、状況の説明に努めていたことが伺えます。

「聞こえぬ」の解釈

「聞こえぬ」の部分が問題の焦点です。現代語訳では「漏れ聞こえた」となっており、この表現は状況が知られてしまったことを意味しています。しかし、質問者が指摘するように、「聞こゆ」という動詞は、音が「聞こえる」という意味だけでなく、時には「申し上げる」「伝える」といった意味にも使われることがあります。

このため、筆者が冷泉院に敬意を示している文脈を考慮すると、「聞こえぬ」を「申し上げた」「伝えた」と解釈することも可能ではありますが、文脈的には「漏れ聞こえた」が自然です。特に、冷泉院の耳に入ること自体が、乳母の無意識のうちに漏れた情報であることを示しているため、「漏れ聞こえた」が適切な訳となります。

「いはれける」の意味と敬意の表現

文中で筆者が冷泉院に対して「いはれける」と述べている部分は、冷泉院に対する敬意を示す表現です。古文では、上位の人物に対して敬語を使うことが一般的であり、「いはれける」はその尊敬を示す表現として使われます。このため、冷泉院に対する敬意は確かに考慮すべきポイントです。

ただし、この敬意は「申し上げる」という意味合いには直結せず、「漏れ聞こえた」という意味を強調するため、現代語訳でも「漏れ聞こえた」が適切となります。

まとめ

「発心集」の西行法師の娘の出家のエピソードで使われる「しばしはとかくいへやりけれど、日ごろ経れば、かくれなく聞こえぬ。」の「聞こえぬ」は、「漏れ聞こえた」と解釈するのが最も適切です。「申し上げた」と解釈することも可能ですが、文脈的に「漏れ聞こえた」が自然な訳となります。筆者の敬意を表す表現は「いはれける」に見られ、冷泉院への敬意が示されています。

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