裨文女塾(Bridgman Girls School)は、上海で最も歴史ある女子学校の一つで、創立は1850年に遡ります。この学校は、アメリカの基督教公理会の宣教師、裨治文と彼の妻である伊丽莎白によって設立されました。今回の記事では、裨文女塾の歴史や変遷についてご紹介します。
1. 裨文女塾の創立とその背景
裨文女塾は、1850年4月15日に上海で設立されました。場所は当時の上海城西門白雲観近く(現在の黄浦区方斜路西林後路102号)です。最初の学生は20名で、全員が通学生でしたが、秋からは寮制に変更されました。
この学校は、上海で初めて設立された女子学校で、教会による教育機関として重要な役割を果たしました。裨文女塾は、当時の中国における女性教育の先駆けであり、これが上海や中国の女子教育の発展に大きな影響を与えました。
2. 1871年以降の変遷
1871年に伊丽莎白が亡くなり、その後はアメリカ婦人伝道会(女公会)が学校を運営しました。この時点で学校名は裨文女塾から裨文女校(Bridgman Girl School)へと変更されました。
その後、1881年にアメリカ公理会と聖公会が対立し、一部の教師と生徒が文紀女校と合併し、学校は正式に「聖玛利亚女书院」と改名されました。校舎も移転し、新たに梵皇渡聖約翰書院の近くに設立されました。
3. 聖玛利亚女書院の設立
聖玛利亚女書院は、文紀女校と裨文女塾が合併して設立され、新しい校長には中国女性の黄素娥が就任しました。最初の学生数は約40名で、そのうち文紀女校からの移籍者が11人、裨文女塾からの移籍者が9人でした。
この新しい学校は、女性の教育に大きな影響を与え、上海での女子教育の発展に貢献しました。聖玛利亚女書院はその後も多くの女性に教育の機会を提供し、今日まで続いています。
4. 裨文女塾の歴史的意義と影響
裨文女塾は、上海だけでなく中国全体における女性教育の重要な礎を築きました。アメリカの宣教師たちの活動によって、当時の中国社会における女性の教育機会が増え、女性が社会で活躍するための土台が作られました。
また、裨文女塾は、その後の女子教育機関に多大な影響を与えました。学校の設立当初から、宗教的な背景を持ちながらも、教育の普及と女性の社会進出を目指していた点が評価されています。
5. まとめ
裨文女塾は、上海における女子教育の先駆けとして、また中国全体における女性の教育の発展に重要な役割を果たしました。設立当初から現代に至るまで、学校は中国社会における女性の地位向上を支える中心的な役割を担ってきました。この学校の歴史を知ることは、現代の女性教育に対する理解を深めることにも繋がります。


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