「えらばれたる」を尊敬語として解釈するか、受身語として解釈するか:新古今和歌における文法的な考察

文学、古典

「この度えらばれたるをば、新古今といふなり」のフレーズに登場する「えらばれたる」という表現について、その文法的な解釈に関して多くの議論があります。特に、これは尊敬語として解釈すべきなのか、受身語として解釈すべきなのかが問題となります。この記事では、このフレーズにおける「えらばれたる」の解釈について、両者の視点から解説し、その背景にある文学的意味を掘り下げます。

「えらばれたる」の尊敬語としての解釈

まず、尊敬語としての解釈を考えてみましょう。「えらばれたる」は、動詞「えらぶ」の受身形「えらばれる」に、連体形「たる」がついたものです。もしこれが尊敬語であるならば、ここでの主体は後鳥羽院(この場合、詠み手や皇族の意味が含まれる可能性があります)であり、「新古今」と言われる存在に対して、敬意を込めて述べていることになります。

この場合、解釈としては「選ばれたもの(選ばれるべき存在)」という意味合いで、後鳥羽院が新古今を選定するという尊敬的な動作を表現していると考えることができます。ただし、この解釈では「選ばれる」という行為自体が受身形となるため、主体の尊敬性が強調されているとは言い難いかもしれません。

「えらばれたる」の受身形としての解釈

次に、受身形としての解釈です。「えらばれたる」が受身形として解釈される場合、これは後鳥羽院が選定する動作ではなく、何かによって選ばれた結果として解釈されます。具体的には、後鳥羽院によって新古今が選ばれた結果を述べるもので、受身形の「えらばれたる」がその選定された状態を表現します。

受身形の解釈を取る場合、文章の主題は「新古今」となり、これが選ばれた存在として、後鳥羽院による選定が行われたことが強調されます。この解釈によって、「えらばれたる」を受身形として捉えることで、文章全体の文法的な一貫性が生まれ、理解が進むかもしれません。

尊敬語と受身語の違いとその文学的意味

「えらばれたる」を尊敬語として解釈するか受身語として解釈するかは、その文学的背景における解釈の違いとも関係があります。尊敬語として解釈した場合は、詠み手が新古今という存在に対して敬意を示していることを意味しますが、受身形の解釈を取ることで、選定された事実や結果に焦点が当たり、選ばれた対象が強調されます。

また、和歌における表現はしばしば象徴的であり、同じ言葉でも異なる解釈が生まれることが多いです。特に平安時代の和歌では、言葉を使って微妙な感情や意図を表現することが一般的であり、解釈の幅を持たせるために受身語と尊敬語の間で揺れ動くこともあります。

まとめ

「えらばれたる」という表現が尊敬語として解釈されるか、受身形として解釈されるかは、その文脈に依存する部分が大きいです。尊敬語として解釈する場合、後鳥羽院が新古今を選定するという意図が込められ、受身語として解釈する場合は、新古今が選ばれた結果が強調されます。どちらの解釈を取るかによって、文学的な意味合いや表現のニュアンスが変わるため、文章の文脈や詠み手の意図に応じた柔軟な解釈が求められます。

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