唐物語第17段に登場する「尭と申す帝、許由に位を譲らんとて三たびまて召しける」を現代語に訳すと、帝である尭が、賢明な許由に位を譲ろうと三度も招いたことがわかります。その中でも、「耳を洗う」場面が描かれており、古文として解釈するのが難しい部分もあります。この記事では、この部分を現代語訳でわかりやすく解説し、どういった意味が込められているのかを詳しく説明します。
現代語訳の解説:耳を洗う場面
「尭と申す帝、許由に位を譲らんとて三たびまて召しける」とは、尭帝が賢人である許由に位を譲ろうと、三度も召し出したということです。しかし、許由はその申し出を受け入れず、断り続けました。次に登場するのは、許由が「きたなきことを聞きつ」と言って、穎水という川で耳を洗う場面です。これは、尭帝が無理に自分を位に就けようとしていることが不潔だと感じ、耳を洗ってその不快感を払おうとする象徴的な行動です。
現代語訳としては、「尭帝が何度も自分に位を譲ろうとしたが、その話を聞いた許由は、不潔な話を聞いたと感じ、穎水で耳を洗った」といった意味になります。
現代語訳の解説:巣父の行動
次に「巣父」という人物が登場します。巣父は牛を追いながら穎水の川を渡ろうとするのですが、そこで再び「きたなきことを聞き」と言い、耳を洗って不快感を表します。許由と同様に、巣父も不快な出来事を避けるために行動しています。現代語訳すると、「巣父という人物が、牛を追ってこの川を渡ろうとしたが、そのときまた不快なことを聞き、耳を洗った」となります。
ここでの「耳を洗う」行動は、心の中の不快感や不潔なことを洗い流し、清らかな心で物事を受け入れようとする意味を込めています。
現代語訳の解説:ひさごと戸の音
次に、「水くむひさご」を竹の網戸に掛けた様子が描かれています。風が吹くたびに戸にあたって鳴る音が不快に感じられ、すぐにそれを割って捨てるという行動が描かれています。これは、少しの不快感でもすぐに取り除こうとする心の表れです。現代語訳としては、「水を汲むひさごを竹の網戸に掛けていたが、風の音がうるさく感じ、すぐに割って捨てた」という意味になります。
この部分も、「耳を洗う」という行動と同じく、わずかな不快感を避け、快適な状態を保とうとする心の動きが表れています。
まとめ
唐物語第17段の「耳を洗う」という行動は、尭帝の無理な申し出を不潔に感じた許由が、その不快感を払おうとする象徴的な行動です。また、巣父やその他の登場人物が示す「不快を避ける」行動は、古代の人々が心の平安を重視していたことを示しています。これらを現代語で解釈すると、当時の人々が抱えていた感情や価値観を理解することができます。


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