源氏物語の「桐壺」:主語の識別と文法的解釈

文学、古典

源氏物語の「桐壺」章における一文、「いよいよあかずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえ憚らせたまはず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。」の主語については、特に難解に感じられることが多いです。この記事では、この文の主語がどこから「帝」だと読み取れるのか、その理由を文法的に解説します。

「桐壺」の前半と後半の文脈の違い

源氏物語「桐壺」の冒頭部分では、桐壺の君が主語として登場しますが、その後に続く文脈の中で主語が帝であると理解する必要があります。このように、桐壺の君と帝が入れ替わる文脈の流れを正確に捉えることが重要です。

「思ほして」の尊敬の意味

この文の中で使われている「思ほして」という動詞は、確かに二重尊敬ではなく、普通の尊敬表現です。この部分は「思う」という意味の動詞が尊敬語として使われており、さらにその後に続く「たまはず」という言葉も尊敬を示します。これにより、主語が帝であるという判断が可能になります。

主語が「帝」と読み取れる理由

文脈から「帝」が主語であることが読み取れるのは、「世のためしにもなりぬべき御もてなしなり」という部分です。この「御もてなしなり」の「御」は、帝を示す尊敬語であり、ここで初めて文全体が帝について述べていることが明確になります。桐壺の君ではなく、帝の行動を示しているのです。

まとめ

「桐壺」の一文における主語は、文の途中から帝に変わることが読み取れます。桐壺の君が最初に登場する一方、尊敬語の使い方や文脈から、「御もてなしなり」の部分が帝について述べていることがわかります。このように、源氏物語のような古典文学では、文脈と尊敬語の使い方に注目することで、正しい主語を特定することができます。

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