『讃岐典侍日記』の一節である「かく目も見立てぬやうあらむや。いかが見る。」という文を品詞分解し、その解釈を深く掘り下げます。この文章の理解には、古語の知識と文法の知識が重要です。本記事では、堀河天皇とその周囲の人物のやりとりを解説し、特にこの一文が表現している感情や言葉の使い方に焦点を当てます。
「かく目も見立てぬやうあらむや」の品詞分解
この一節は、堀河天皇が自らの状態を表現している場面です。まず、「かく」は副詞で、状況や状態を示す言葉です。「目も見立てぬ」は、動詞「見る」の未然形「見立て」に助動詞「ぬ」が付いています。これにより「目も見立てぬ」とは、「見立てることすらしない」という否定的な意味合いを持ちます。「やうあらむや」は、接続助詞「や」に続く、「あらむや」の形で、推量や疑問を表します。直訳すると、「こうした目も見立てられないような状態であろうか?」という意味になります。
「いかが見る」の解釈
次に、「いかが見る」の部分を考えます。「いかが」は疑問詞で、どのようにという意味を持ちます。「見る」は動詞「見る」の連体形で、この文脈では「見る」の行為が疑問の対象となります。「いかが見る」というフレーズは、「どう見るか?」または「どのように見るべきか?」という意味になります。この文脈では、堀河天皇が自分の状況について他者の意見を求めていると解釈できます。
「問わせ給ふ」と「聞く心地」について
「問わせ給ふ」という表現は、「問う」の謙譲語である「給ふ」に、使役の助動詞「させ」を加えた形です。ここでは、堀河天皇が自らの状態について他者に尋ねる状況を示しています。「聞く心地」は、感覚を表現する言葉で、「聞く」ことに対する感情的な反応を表しています。この場合、「ただむせかへりて」と続くことで、心情的に動揺している様子が強調されます。
「御いらへもせられず」と「堪へがたげにまもりゐるけはひ」
「御いらへもせられず」は、動詞「いらへる」の尊敬語「せられず」が使われています。これは「答えることができなかった」という意味です。「堪へがたげにまもりゐるけはひ」は、「堪へがたげ」という形容詞が状態を表し、「まもりゐる」は動詞「まもる」の連用形で、現在進行中の状態を示します。全体として、堪えることができず、物事を見守るしかない状況を描写しています。
「おのれはゆゆしくたゆみたるものかな」の品詞分解と意味
「おのれは」は一人称の代名詞で、「自分自身」という意味です。「ゆゆしくたゆみたるものかな」は、形容詞「ゆゆし」(非常に恐ろしい、重大な)に動詞「たゆむ」(たる)がついています。「ものかな」は感嘆の語であり、「自分は、こんなにも恐ろしい状態にあるのか」という驚きと自嘲の気持ちが表れています。
「我は今日明日死なむずるは、知らぬるか。」の解釈
この部分は、堀河天皇が死を迎えるという認識を持ち、その状況に対して周囲の反応を求める場面です。「死なむずる」は、「死なむ」(死ぬつもりだ)の推量形です。これは「死ぬつもりなのか?」という疑問の形となり、深い悩みを感じさせます。全体としては、「私は今日か明日、死ぬかもしれない。あなたたちはそれを理解しているのか?」という強い感情が込められています。
まとめ
この一節を品詞分解することで、堀河天皇の感情やその時の状況が浮かび上がってきます。言葉の選び方や文法が、当時の情景や心情を非常に細やかに表現しています。『讃岐典侍日記』のような古典文学を学ぶことは、歴史的背景とともに言葉の力を感じる素晴らしい体験です。


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