戦後台湾の日本語禁止と北京語強制は真実か?言語政策の実像を解説

中国語

戦後の台湾で「日本語禁止令」「公の場で日本語使用禁止」などの記述を見かけたことがあるかもしれません。この記事では、〈台湾における日本語の扱い〉と〈公用語としての中国語(北京語/国語=普通話)の導入〉という2つの言語政策を整理し、実際に何が行われたのかを確認します。

日本統治から国民政府移管まで:日本語教育の終焉

台湾は1895〜1945年まで日本の植民地支配下にあり、その間、日本語教育が広く実施されました。([参照]https://en.wikipedia.org/wiki/Taiwan_under_Japanese_rule)

その後、1945年に日本の敗戦とともに、中国国民党(KMT)が台湾を統治し始め、「脱日本化(De‑Japanization)」「再中国化(Re‑Sinicization)」政策を採りました。([参照]https://ex-position.org/wp-content/uploads/2020/01/031-Liang-ya-Liou.pdf)

日本語使用の制限・禁止の実態

戦後直後、台湾では日本語を含む植民地期の言語・文化を抑制する動きがありました。「Japanese language and culture were targeted for elimination by the KMT government in early postwar Taiwan」などと記述されています。([参照]https://www.taipeitimes.com/News/feat/archives/2017/06/11/2003672324)

ただし、「日本語をすべての場面で完全に使用禁止にされた」という記録までは明確ではありません。むしろ、学校教育・公的機関・メディアなどにおいて中国語(国語/普通話)が強く推進され、日本語・台湾語・客家語などが抑制されたと言われています。([参照]https://en.wikipedia.org/wiki/Language_policy_in_Taiwan_during_martial_law)

中国語(普通話)強制の背景と展開

KMT統治下では「国語」教育の普及と台湾の統一的な言語基盤整備が目的とされ、公用語として中国語(普通話=Mandarin)が推進されました。([参照]https://en.wikipedia.org/wiki/Language_policy_in_Taiwan_during_martial_law)

この政策のもと、学校で台湾語や日本語の使用が制限され、「国語運動(Guoyu movement)」が行われた地域もあります。言語使用が監視され、台湾語などを使った児童には罰則的措置があったという資料もあります。([参照]https://en.wikipedia.org/wiki/Language_shift)

質問にあった「80年代後半まで日本語禁止令が続いた」という記述については、直接に「1987年に日本語使用禁止が公式に解除された」という明確な宣言を確認する一次資料は見つかっていません。 ただし、台湾が戒厳令を解除した1987年以降、台湾語・客家語・日本語文化に対する制限が徐々に緩和され、1990年代以降に日本語教育・文化交流が急速に復活していったという研究があります。([参照]https://www.sinica.edu.tw/etwisdom/2009Web/PDF/ethch-0051b.pdf) まとめ:禁止令という言葉の使い方とリアルな状況

整理すると、戦後の台湾では「日本語使用に対する厳しい抑制」「中国語(普通話)推進」という言語政策が確かに存在しました。日本語教育や使用が公的に後退したのは事実です。

しかし、「日本語禁止令」という明文化された法令や、「全ての日本語使用が完全に禁止された」という証拠が明確には整理されておらず、「80年代後半まで禁止されていた」という記述も、一般論としては慎重に扱う必要があります。歴史的な言語政策を理解するときは、「公教育・公的機関での使用制限」「普通話の強制」の存在を踏まえつつ、具体的な文脈と時期を確認することが大切です。

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