『十六夜日記』に登場する「御参り候ひける」といった表現が、なぜ謙譲語ではなく丁寧語なのか、また自敬表現とされる「御返事」について解説します。この文脈における日本語の敬語表現についての理解を深めていきます。
「御参り候ひける」の解釈
「御参り候ひける」の「御参り」は、動詞「参る」の尊敬語として使われていますが、ここでは謙譲語としてではなく、敬語の一つである丁寧語で使われています。具体的には、「参る」自体は謙譲語にあたる動詞であり、相手に対して低姿勢で使うものですが、「御参り」となることで丁寧な表現となり、文章の内容に対する敬意が示されます。
この「御参り候ひける」は、あくまで敬語の一環として使われ、謙譲語として解釈するのではなく、あくまで「御」をつけて敬意を表す丁寧な形態だと考えるのが一般的です。つまり、ここでは相手への敬意を表しつつも、謙遜を強調しない使い方となります。
自敬表現と「御返事」
次に登場する「御返事」という表現ですが、これが自敬表現となっているかについても考察が必要です。日本語において、自己の行為に対しても「御」をつけることで、自分自身に対しても敬意を表す「自敬表現」となる場合があります。
ここで「御返事」と表現しているのは、筆者自身(御匣殿)が自分の返事を丁寧に述べる意図を込めた表現です。この使い方は、謙譲語として自分を低く見せるのではなく、あくまで相手に敬意を表すために使われているため、必ずしも自分を下げる表現にはなりません。これは日本語の微妙な敬語の使い分けの一例です。
日記における敬語表現の特色
『十六夜日記』などの文学作品では、敬語表現が非常に重要な役割を果たしています。特に、書き手の立場や相手との関係性が反映された敬語の使い方が多く見られます。日記という個人的な記録の中であっても、敬語表現は相手に対する尊敬や敬意、さらには自分自身の立場を反映させる手段として使われています。
そのため、文学作品における敬語表現は、単に形式的なものに留まらず、作者の気持ちや相手に対する配慮が込められていることがよくあります。「御参り」「御返事」などの表現も、作者のその時々の心情や相手への敬意を映し出しているのです。
まとめ
『十六夜日記』の中で使われている「御参り候ひける」や「御返事」といった表現は、単に敬語の使い方にとどまらず、作者の心情や相手に対する敬意を表現するための重要な手段となっています。敬語の使い方については、文脈や相手との関係性を理解することが大切であり、謙譲語と丁寧語の使い分けが適切に行われていることがわかります。


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