『大鏡』の「弓争い」では、道長と伊周の争いが描かれ、そこに登場する人物やその行動に対して、様々な敬語が使用されています。特に「饗応し、もてはやし聞こえさせ給ひつる興もさめて」という一節における敬語の解釈について、疑問を持つ方が多いようです。この敬語の使い方がどのように解釈されるべきなのかを、具体的に分析し、解説していきます。
敬語の方向性とその解釈
「聞こえ」「させ」「給ひ」といった敬語の使い方に関して、疑問を持つ方は少なくありません。まず「聞こえ」は謙譲語であり、一般的に自分の行動や言動をへりくだって表現するために使用します。一方で「させ」と「給ひ」は尊敬語で、これらは相手を敬う意図で使われます。このように、敬語の受け手が誰であるかを明確にすることが、理解を深めるためのカギとなります。
「饗応し、もてはやし聞こえさせ給ひつる興もさめて」の文脈
この一節の文脈では、道長が伊周に圧勝したことで、周囲の熱気が冷めていく場面です。饗応したのは道隆であるため、道隆への敬意が込められているのではないかと考えられる部分もあります。しかし、この一節における敬語が誰に向けられているのかという問題は、その文脈をどのように理解するかに依存します。特に「させ」や「給ひ」が道長への尊敬を示すのか、それとも観衆や他の人物に向けられているのかを慎重に解釈することが求められます。
尊敬語と謙譲語の受け手の解釈
「聞こえさせ給ひつる興もさめて」という部分では、尊敬語と謙譲語が混在しており、注意深く解釈する必要があります。もし敬意が道隆に向けられているのであれば、「させ」「給ひ」は道隆に対する尊敬語として理解できます。しかし、周囲の観衆に対しての敬意が込められている場合、観衆に対する尊敬語となる可能性もあります。このように、敬語が誰に向けられているかを考慮し、場面ごとの状況を踏まえて理解することが重要です。
まとめと解釈のアプローチ
『大鏡』における「弓争い」の一節における敬語の解釈は、文脈に基づいて行う必要があります。受け手が誰であるかを明確にするためには、当時の社会背景や人物関係を理解し、その場面がどう展開しているかを把握することが大切です。敬語の使用は、時にその背景にある人間関係を反映しているため、その理解が深まることで、物語の奥深さをより豊かに味わうことができるでしょう。


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