太宰治の『人間失格』は、深い哲学的な問いを投げかける作品であり、その中には数多くの心に響く一節が登場します。その一つが「神に問う。無抵抗は罪なりや?」という言葉です。この記事では、この一節の意味について解説し、どうして「〜なりや?」という表現が使われているのかについて考察します。
「無抵抗は罪なりや?」の文脈
『人間失格』のこの一節は、主人公である大庭葉蔵が自らの生き方や罪悪感について問いかける場面で登場します。大庭葉蔵は、社会に適応できず、自分自身を「人間失格」と考え、日々の生活に悩みながら過ごしています。
この問いは、彼が自分の行動や無為無策な状態を反省し、神に対して「無抵抗は罪であるのか?」と問う形で表現されています。つまり、大庭は、自分がどこかで積極的に抵抗するべきだったのか、あるいはその無力さが「罪」なのかを自問しているわけです。
「〜なりや?」の意味とその使い方
「〜なりや?」という表現は、古典文学に見られる形式であり、現代の日本語ではあまり使用されません。この言い回しは、疑問の形で使われることが多く、文語調の表現です。
「なりや?」という疑問形は、古典文学や江戸時代の文書で頻繁に見られるもので、意味としては「〜であるのか?」や「〜だろうか?」に相当します。このように「なりや?」を使うことで、大庭葉蔵が自分の行動や存在に対して深い疑念を抱き、問いかけているニュアンスを強調しています。
自問自答としての意味
この一節の「〜なりや?」は、外部に向けた問いかけではなく、むしろ大庭葉蔵自身の内面への自問自答です。彼は、無抵抗である自分をどのように評価すべきか、またその無力さが果たして罪なのかどうかを内省しています。
大庭の心の中で繰り広げられるこの疑問は、彼の自己否定的な思考や絶望感を表しており、彼がどれほど自身の存在に対して悩み、苦しんでいるかが伝わってきます。つまり、この一節は彼の精神的な苦しみを象徴する重要な部分です。
まとめ
太宰治の『人間失格』における「無抵抗は罪なりや?」という一節は、主人公の大庭葉蔵が自らの無力さや罪悪感について深く思い悩んでいることを示しています。「〜なりや?」という古語の疑問形を通じて、彼の心の中の問いかけや自問自答が表現されており、作品全体のテーマである「人間の矛盾」や「自己否定」に深く関わっています。
この表現を理解することで、『人間失格』の中で太宰が描こうとした人間の内面や苦悩について、より深く感じ取ることができるでしょう。
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