『大江山』の歌は、古典文学における重要な作品です。この歌に登場する動詞「遣はし」「参り」「思す」について、それぞれの動作主(主語)を理解することは、歌の解釈において非常に重要です。以下では、この歌の各動詞に関して動作主を詳しく説明し、正しい解釈をお伝えします。
「遣はし」の動作主
「遣はし」は、送り出す、派遣するという意味の動詞です。この文では、送り出したのは「人」です。つまり、歌の中で「人」が誰かに対して、何かを送る・派遣する動作を行っています。
「参り」の動作主
「参り」は、「行く」という意味の動詞の謙譲語です。ここでは、「参り」の動作主は、実際に参った人、つまり「参る人」や「参った者」が動作の主体です。この場合、参るのは送り出された「人」であると解釈できます。
「思す」の動作主
「思す」は、思う、考えるという意味の動詞の尊敬語です。尊敬語のため、この場合の動作主は「思す」ことが尊敬される「人物」、つまり上位の人物です。この歌の文脈では、神仏や天皇など、尊敬すべき人物が「思す」と解釈されます。
まとめ
『大江山』の歌における動作主は、文脈により異なることが理解できるポイントです。「遣はし」は送り出す者(人)、「参り」は行く者(参った人)、「思す」は尊敬される人物(神仏や天皇)という形で、歌の内容に深い意味を与えています。
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