古典の文章を読んでいると、「恥づ」のように自動詞として理解される語が、まるで他動詞のように目的語を取っている例に出会うことがあります。「たれをか恥づ」という表現もその一つで、「誰に対して恥ずかしく思うだろうか」という意味を持ちます。本記事では、この用法がなぜ成立するのかを文法的・歴史的な観点から解説します。
「恥づ」の基本的な意味と用法
「恥づ」は古典文法において下二段活用の自動詞であり、「恥ずかしく思う」「面目を失う」といった意味を持ちます。現代語の「恥じる」とほぼ同じ働きを持つ言葉です。
通常は「〜に恥づ」「〜を恥づ」といった形で、人や行為に対して羞恥の感情を抱くことを表現します。
なぜ「たれを恥づ」と目的語を取るのか
古典においては、自動詞と他動詞の区別が現代語ほど厳密ではありません。自動詞であっても、対象を明示するために格助詞「を」を伴う場合があります。これを対象の「を」と呼びます。
つまり「たれを恥づ」は「誰に対して恥ずかしいと思うか」という意味であり、「を」は必ずしも他動詞の目的語を示すのではなく、羞恥の感情が向かう対象を示す働きを持っています。
実例:対象の「を」が使われる表現
例えば、『徒然草』には「人を恥ぢずして…」という表現があり、これは「人に対して恥じることがなく」という意味になります。このように「を」を使っても、自動詞的な意味が失われるわけではなく、むしろ対象が明確になるという効果を持ちます。
同様に、「笑ふ」を「人を笑ふ」と表現するように、本来は動作の方向性を補足する「を」が多くの自動詞に付属する例が見られます。
現代語との違い
現代語では「恥じる」は「自分の行為を恥じる」「親の行いを恥じる」といった形で、ほとんど他動詞的に使われる場合が多いですが、「誰に恥じる」という言い方はあまり一般的ではありません。この点において古典語の方が用法が幅広いといえます。
したがって「たれをか恥づ」という表現は、古典特有の用法であり、現代語に直す際には「誰に対して恥ずかしく思うのか」と解釈するのが自然です。
まとめ
「恥づ」は自動詞でありながら、「を」を伴って対象を示すことができるのは、古典語における「対象のを」という用法によるものです。これは現代語の文法感覚では不思議に思えるかもしれませんが、古典では自然な表現です。この理解を持つことで、古典の文章をより正確に読み解くことができるでしょう。
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