『枕草子』は、平安時代の女流文学者である清少納言によって書かれた名作であり、その中には多くの日本語表現が登場します。特にその中で「かならず思ふべき人、とふべき人」という一節が登場し、現代語訳に関して疑問を持たれることがあります。この記事では、その疑問に対する解説を行います。
1. 「かならず思ふべき人、とふべき人」の意味とは
この一節の中で使用されている「思ふべき人」と「とふべき人」について、まずは古語の意味を理解することが重要です。ここで使われている「べき」は、義務や推量を表す助動詞です。この場合、「思ふべき人」は「思うべき人」と解釈でき、つまり「思わなければならない人」という意味合いになります。また、「とふべき人」は「訪ねるべき人」とも解釈でき、つまり「訪問すべき人」という意味合いになります。
現代語訳としては、「きっと思ってくれる人、かならずお見舞いをしてくれる人」という表現が使われていますが、ここでの「べき」には義務や推量のニュアンスが含まれており、やや柔らかく解釈されています。
2. 受け身の要素はどこにあるのか
質問者が指摘されたように、「受け身の要素が見当たらない」と感じる理由は、この表現に「自発的に行動する」というニュアンスが強いからです。しかし、「べき」という助動詞が使われていることに注目すると、受け身的な解釈も可能です。「思ふべき人」は自分から「思う」ことが求められる人物を指しており、「とふべき人」は訪れるべき人物を指します。この場合、訪問するのは自分である必要がありますが、「訪れることが求められる人物」という意味合いで使われているため、あくまでも積極的な行動を意味します。
したがって、現代語訳では受け身の要素を感じさせることなく、より簡潔に「思ってくれる人」「お見舞いをしてくれる人」といった表現になっています。
3. 「枕草子」の中の文脈と解釈の違い
『枕草子』における表現の一つひとつは、平安時代の文化や価値観が反映されているため、現代語訳を行う際には文脈を考慮することが重要です。清少納言が表現した「思ふべき人」「とふべき人」には、単なる行動の義務や推量を超えて、深い人間関係の意味合いが込められています。このような深い感情のやり取りを現代語に置き換えることで、あまり堅苦しくなく、自然な言葉で解釈されることが求められるのです。
そのため、現代語訳ではより柔軟に解釈され、受け身的なニュアンスは省略されていると考えられます。
4. まとめ
「かならず思ふべき人、とふべき人」の現代語訳における疑問について、受け身の要素が見当たらないと感じるのは、翻訳の際に義務感や推量が軽減され、より自然な表現に変換されたからです。このように、古典文学の翻訳には、原文の意味を保ちながらも、時代背景や読者の理解を考慮して柔軟に解釈が行われることが多いです。
したがって、この一節に関しては、翻訳における解釈の幅を理解し、現代語訳がどのように変化しているかを知ることが重要です。
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