『蜻蛉日記』の「めり」の使い方:藤原道綱の母の意図とは?

文学、古典

『蜻蛉日記』は平安時代の藤原道綱の母が記した貴重な日記で、当時の感情や出来事を垣間見ることができる作品です。質問では「めり」の使い方について疑問が出ています。特に、「さなめりと思ふに」という部分での「めり」の使用についてです。ここでは、その文法的な背景と意図について掘り下げていきます。

「めり」の基本的な意味と使い方

まず、「めり」は、古典文学においては推定を表す助動詞として使われます。「めり」の基本的な使い方は、推測や判断に基づいています。通常は目で見たものを基に推測する時に使うとされており、「見て推測する」意味で使用されますが、耳で聞いた情報に基づいて使用されることもあります。

「めり」は現代語でいう「〜だろう」という意味に近いですが、古典文学ではそのニュアンスがもう少し複雑です。言い換えれば、見たり聞いたりして何かを推測する時に使われるのが特徴です。

「さなめり」の使い方とその背景

『蜻蛉日記』で「さなめり」と記されているのは、「思ふに、さなめりと思ふに」という表現の一部です。ここで「さなめり」は、目で見ることなく、何らかの理由で推測している状況を示しています。質問者が言うように、ノックを耳で聞いて「兼家が来た」と推測した場合、通常であれば「なり」を使った方が適切だと思われがちです。しかし、「めり」が使われた背景には、作者の意図や当時の文法ルールが関わっています。

この文脈で「めり」が使われたのは、耳で聞いた情報に基づいても、目で見た情報と同じように推測を示すためだと考えられます。つまり、視覚に頼らず、他の感覚から推測することが許されていたため、「めり」が使用された可能性が高いです。

「めり」と「なり」の違いについて

「めり」と「なり」はどちらも推測の助動詞ですが、その使われ方には微妙な違いがあります。「なり」は、他の人から得た情報や、自分の意識に基づいて推測を表現しますが、「めり」は、実際に目で見たことを基に推測する際に使われます。したがって、この場合「めり」を使うことで、作者が視覚的な推測ではなく、耳から得た情報を基に推測していることが示唆されています。

『蜻蛉日記』における表現技法と意図

『蜻蛉日記』における「めり」の使い方は、当時の言語の柔軟さと表現の工夫を反映していると考えられます。古典文学では、感覚や推測を伝えるために多くの表現が使われ、現代の私たちが感じる以上に、言葉の使い方に自由さと深さがありました。

また、この部分における「めり」の使用は、道綱の母が「兼家が来た」と思ったその瞬間の心情をより強調し、彼女が自分の内面的な推測を表現するための手法の一つです。

まとめ

『蜻蛉日記』での「めり」の使い方には、古典文学における言語の自由さと、作者の内面的な推測を強調する意図が込められています。「めり」は視覚に依存するのではなく、耳で得た情報から推測する際にも使われる可能性があるため、この点を理解して読むと、より深い感情の読み取りができるでしょう。文法や表現に関しては、当時の言語規則に沿ったものであるため、現代語の感覚で考えすぎないことも大切です。

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