「讚岐典侍日記」の一節を例に挙げて、客観的叙述と主観的叙述の違いについて考えます。この文では、感情や主観的な要素が含まれているように見えるものの、なぜ客観的な叙述とされるのかについて解説します。
「讚岐典侍日記」の一節の内容
この一節は、作者が早朝に鐘の音を聞き、明け方の感覚や周囲の状況に対する思いが記されています。感情表現が見られる部分(「いとうれしく」)もありますが、それがどうして客観的な叙述とみなされるのかが問題です。
この文は、感情が表現されているにも関わらず、実際には「事実」を記録しているという観点から客観的な叙述と解釈されます。なぜなら、感情が述べられている場所であっても、その感情は具体的な出来事に基づいています。鐘の音や鳥の声などの事象は、現実に起こった出来事として描写されているため、感情表現もそれに伴うものとして理解されるべきです。
客観的叙述と主観的叙述の違い
客観的叙述とは、感情や意見を交えず、事実に基づいて出来事や状況をそのまま記録することを指します。一方、主観的叙述では、個人の感情や意見が強調されます。この一節では、実際に起こった事象(鐘の音や鳥の声)を描写することに焦点が置かれており、その上で感情が付随して表現されているため、客観的な要素が強いとされています。
特に「鐘の音聞こゆ」といった描写は、明け方という事実に基づいています。その感情的な反応(「いとうれしく」)は、事実の直接的な反応として捉えることができます。
なぜ感情表現があっても客観的なのか
感情表現が含まれている場合、その文が主観的なものとして解釈されることもあります。しかし、この場合、感情は状況に基づいており、具体的な事象に反応する形で表現されています。言い換えれば、この感情の表現は、事実に対する反応として描かれているため、主観的でありながらも客観的な事実に基づいていると評価されます。
また、この一節では筆者の内面が描かれていますが、それでも客観的に感じるのは、筆者の感情が特定の出来事への反応として示されており、その出来事が他者によっても同様に認識できる可能性があるからです。
まとめ
「讚岐典侍日記」の一節における感情表現は、実際の出来事に基づいており、それが客観的な叙述として解釈される理由となっています。感情が含まれていても、それが具体的な事象に対する反応として述べられているため、この文は客観的な叙述とされます。このように、感情表現を含んだ文でも、その背景にある事実を明確に記述している場合、客観的な叙述として捉えることができます。
コメント