山月記の「人間の心が消えればしあわせになる」理由を解説

文学、古典

「山月記」に登場する主人公、李徴のセリフ「おれの中の人間の心がすっかり消えてしまえば、おそらく、その方がおれはしあわせになれるだろう」という言葉には深い意味が込められています。この記事では、その理由と「しあわせ」の意味、そしてなぜ人間の心が消えればしあわせになれるのかについて解説します。

「しあわせ」に点がつく理由

李徴のセリフで「しあわせ」に点がついている理由は、彼が体験している心情の変化を表しています。このセリフの背景には、彼が虎に変身してしまうという象徴的な出来事があります。彼の中で「人間らしさ」が消え、虎として生きることによって、彼はこれまで感じていた孤独や苦しみから解放されると感じているのです。

そのため、「しあわせ」に点がつくことで、その感情が一時的な解放であり、決して完全な幸福ではなく、一種の皮肉を含んでいることがわかります。点をつけることで、彼の「しあわせ」が不完全であることを暗示しているのです。

人間の心が消えればしあわせになれる理由

李徴が「人間の心が消えればしあわせになれる」と考えた背景には、彼の内面的な苦悩があります。彼は過去の自分を誇り高く、自己中心的に生きてきたことが原因で、周囲と対立し孤立していきました。その結果、彼は深い孤独感と精神的な苦しみを抱えることになります。

そのような状況から解放されるためには、自分の人間らしい感情や思考を捨て去り、無感情である虎のような存在に変わることが「しあわせ」だと感じたのでしょう。虎の姿になることで、彼は人間社会からの束縛から解放され、無心で生きることができると考えたのです。

人間らしさとその苦悩

物語の中で李徴が虎に変身することは、彼が抱える「人間らしさ」の苦悩の象徴です。彼の誇り高き性格や自己中心的な考え方が、最終的に彼を孤立させ、精神的な不安定さを引き起こしました。このような人間らしさが、彼にとっては苦痛であり、それを捨て去ることで「しあわせ」に近づけると感じたのでしょう。

この点で、李徴の考えは悲劇的であり、人間らしさを捨てることが必ずしも幸せに繋がるわけではないことを私たちに教えてくれます。

人間の心の消失と本当の「しあわせ」の違い

李徴が求めた「しあわせ」は、実は本当の幸福ではなく、苦しみからの一時的な逃避に過ぎません。彼は「人間らしさ」を消すことで楽になろうとしましたが、物語が進むにつれて、その考えが破滅的な結果を招くことが明らかになります。

実際のところ、人間らしさを失うことが本当の「しあわせ」には繋がりません。人間としての感情や関わりがあるからこそ、喜びや充実感を感じることができるのです。李徴のように感情を捨てることが、最終的には孤独と悲しみに繋がることを示しています。

まとめ

「山月記」の中で、李徴が「人間の心が消えればしあわせになれる」と考えた理由は、彼が感じていた苦悩とその解放への願望にあります。しかし、その考えが必ずしも幸福に繋がるわけではなく、むしろ孤独と悲劇をもたらすことを物語は教えてくれます。人間としての感情やつながりがもたらす本当の「しあわせ」について考えさせられる作品です。

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