「苦をなくしたい」という願いが、実は「苦への執着」になりうるという逆説的な問いについて、今回は老荘思想(道家)を通じて考察します。日蓮仏法や創価学会の教義における「苦からの解放」のアプローチは、老荘思想とどのように交わるのでしょうか?この問いを深掘りし、仏教と道家思想の違いを考えます。
「苦を除く努力」とは何か?
仏教における「苦を除く努力」とは、基本的に苦しみの原因を取り除くことを目指すものです。特に日蓮仏法や創価学会においては、「自己変革」や「宿命転換」を強調し、積極的に人生を変えていく力を養うことが理想とされています。しかし、この「苦を取り除く」努力が、実は「苦への執着」となってしまう可能性もあります。
「苦しみから逃れたい」「もっと良く生きたい」という願いが宗教の根本にあるとすれば、その努力自体が苦に対する執着を生むことになりはしないか、という疑問が浮かび上がります。このような問いを考えるために、老荘思想の視点が重要になります。
老荘思想の視点で見る「苦からの解放」
老子の教えにおける「道(タオ)」は、自然の流れや無為の状態を尊重し、無理に何かを変えようとすることを避けるものです。老子は「無為自然こそが真の調和である」と語り、変革を求める心が道から外れることを警告しています。この視点から見ると、「自己変革」や「苦からの解放」を求める努力は、無為で自然な道に反しているようにも思えます。
つまり、道家の考え方では、積極的に苦を取り除こうとすること自体が「不自然」であり、「無為」であることが調和をもたらすとされます。この点で、仏教の修行や努力がどこか道から外れていると見ることができます。
仏教と老荘思想の対比:能動と無為
仏教は、苦しみの原因を分析し、その解決方法として「八正道」などを提示します。日蓮仏法や創価学会はさらにその教義を発展させ、社会的実践を重視し、能動的な「自己変革」を奨励します。ここでの「苦を取り除く」努力は、積極的で行動的なものであり、社会の中での貢献を強調します。
一方、老荘思想は、無理に何かを変えようとせず、「道に任せる」ことが最も自然な形であると説きます。道家思想と仏教の間には、このような能動性と無為という対立があります。しかし、仏教の中にも逆説的な視点が存在し、禅宗では「悟りを求める心が最も遠い」とも言われ、最終的には「空なる真理」に帰結します。
日蓮仏法と創価学会の実践:老荘思想との共鳴
日蓮仏法や創価学会の教義において、「妙法」「南無妙法蓮華経」などを唱えることによって苦を超える力を得るとされています。しかし、この「能動的な苦からの解放」の教義が、老荘思想における「無為」に近づくとどうなるのでしょうか?
創価学会や日蓮仏法における「生命革命」「苦を苦としない境涯」の思想は、老荘思想における「無為自然」や「上善は水の如し」といった教えに通じる部分があります。つまり、最終的には「無為」に近いところに到達することが、仏教的実践でも求められているのかもしれません。
まとめ:能動と無為の調和を探る
「苦を取り除く努力」という能動的なアプローチと、老荘思想における無為の思想には明確な対立がありますが、最終的には両者が調和することができる可能性もあります。日蓮仏法や創価学会の教義も、その本質は「無為」に向かっているのかもしれません。
「自己変革」とは、単に変えることではなく、本来の姿に還ることなのかもしれません。そのためには、能動的な努力と無為の調和を意識し、「自然な慈悲と智慧」を身につけることが、最も深い意味での修行であり、実践であると言えるでしょう。
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