カントの『純粋理性批判』における「存在論的神学」批判:根源的存在者の認識とその意味

哲学、倫理

カントの『純粋理性批判』におけるA632/B660の議論では、根源的存在者の現存在を経験なしに単なる概念によって認識する立場に対して、カントは強い批判を展開しています。特に、これを「合理的神学のうちの超越論的神学のうちの存在論的神学だ」と表現した部分について、なぜ「存在論的」と呼ばれるのかが疑問です。本記事では、このカントの批判について詳しく解説し、「存在論的神学」の意味とその重要性を探ります。

カントの「合理的神学」批判とは?

カントは『純粋理性批判』において、神の存在を理性の単なる概念で認識する試みを批判しています。合理的神学では、神の存在を経験的証拠なしに理性だけで証明しようとする立場が取られますが、カントはこれを批判的に捉えます。カントにとって、理性だけで神の存在を証明することは、現象としての経験に基づかないため、無意味であるとされます。

この批判が「超越論的神学」や「存在論的神学」とどう結びつくのかは、カントの哲学における重要な問題です。カントは理性が何を証明できるのか、そしてその限界を明確にしようとしました。

「存在論的神学」とは何か?

「存在論的神学」という言葉は、神の存在そのものを扱う神学的立場を指します。一般的に「存在論的」という言葉は、存在そのものに関する理論や議論に関連しています。したがって、カントが「存在論的神学」と呼んだのは、神の存在が理性の単なる概念として認識され、経験的証拠なしにその存在が論じられることに対する批判的な意味を込めた表現です。

カントは、神の存在が単なる理論的な構築である場合、それは「存在論的神学」に基づいていると見なしました。つまり、存在そのものを論じることが、経験的に確証できない場合、その議論は実質的に意味をなさないと主張したのです。

カントの批判の背景にある「経験主義」

カントの批判は、彼の「経験主義的」哲学に根ざしています。カントにとって、物事の認識はすべて経験に基づくべきであり、理性だけで物事を論じることには限界があると考えていました。したがって、神のような超越的存在についても、経験的証拠を欠いた形での理性による認識は無意味だとされます。

この立場が「超越論的神学」の批判に繋がり、さらには「存在論的神学」と呼ばれることになったのです。カントは、神の存在を認識するためには、経験的な証拠と理性を適切に統合する必要があると説いています。

カントの「存在論的神学」批判の意義

カントの「存在論的神学」に対する批判は、哲学的にも宗教的にも重要な意味を持ちます。カントは、理性だけで神の存在を証明しようとする試みが、経験に基づくものではなく、抽象的な概念に過ぎないと指摘しました。この批判は、宗教や哲学における「神の存在証明」についての議論に大きな影響を与えました。

また、カントは「人間の認識の限界」を強調し、神や超越的な存在については、経験的に証明できるものとして扱うことができないことを示しました。これにより、神の存在を理論的に論じることの限界が明確になり、後の哲学的議論における重要な基盤となったのです。

まとめ

カントの「存在論的神学」批判は、理性だけで神の存在を証明しようとする試みが、経験的証拠に欠けることを指摘しています。カントにとって、神の存在を理性で認識することは不可能であり、実際的な経験に基づく哲学を重要視しました。「存在論的神学」という表現は、神の存在を単なる理論的構築として扱うことへの批判であり、この批判は後の哲学や宗教的議論に大きな影響を与えました。

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