琅威理は英国格林威治皇家海军学院を卒業した英国皇家海軍の軍官で、1882年に大清帝国に渡り、北洋水師の「副提督衔水师总监督(総查)」として勤務しました。実際には、彼は北洋水師の海軍総教官としての役割を担っていました。この任命には、当時の大清帝国の海軍改革と、外部からの影響が大きく関わっていました。
李鸿章と洋務運動
琅威理が北洋水師に受聘した背景には、当時李鸿章が主導していた洋務運動がありました。大清帝国は軍艦を購入し、海外から海軍の知識を取り入れるために海軍軍官を育てていました。しかし、北洋水師が初めて組織された時、その「ソフトウェア」としての基盤はまだ整っていませんでした。操縦者が近代海軍の指揮体系を理解していないため、旗語の使い方が不明瞭であり、友軍との接触の際に衝突の危険がありました。
この問題は、いわゆる「三十年陸軍、五十年空軍、一百年海軍」と言われるように、海軍の発展は非常に時間がかかるものであり、その複雑さと新しいシステムの導入には相当な努力が必要でした。
琅威理の役割と改革
李鸿章は、福州船政学堂で教育を受けた海軍軍官たちに対しても一定の信頼を寄せていましたが、実際に彼らを指導にあたらせることには不安がありました。そこで、彼は外部から専門知識を持つ琅威理を迎え入れ、北洋水師の海軍教育の体制を強化しました。琅威理はその教育理念に基づき、指揮官に必要な技術や海軍の戦術を徹底的に教えました。
琅威理はまた、艦隊の整備や訓練において、当時の海軍としては画期的な方法を取り入れ、海軍の近代化を推進しました。彼の訓練は非常に厳格であり、しばしば艦隊の状況に応じて変更を命じ、指揮官に対しても問題解決能力を要求しました。
丁汝昌の選択と北洋水師の運命
李鸿章は北洋水師の指揮官として、外部から迎えた琅威理に一定の信頼を寄せる一方で、彼の愛する部下である丁汝昌を北洋水師の提督に任命しました。これは、琅威理の指導を確実に実行に移すための一手でした。
結果として、北洋水師は琅威理の指導を受けて近代化し、一定の実力を誇る海軍となりましたが、琅威理と清朝との関係はその後、予期しないほど短期間で終息を迎えることになりました。
まとめ
琅威理は、北洋水師の近代化に重要な役割を果たした人物であり、その訓練や指導方法は、清朝海軍に大きな影響を与えました。彼は、英国海軍の理念を基に海軍を指導し、李鸿章の洋務運動を支援しましたが、最終的には清朝との関係が短期間で冷え込み、琅威理はその後、複雑な政治情勢の中で苦しむこととなります。それでも、彼の海軍改革は北洋水師にとって重要な転換点となり、後の海軍戦力にも多大な影響を与えました。
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