ジャン=ポール・サルトルの有名な言葉「実存は本質に先立つ」は、実存主義における根本的な思想を表現しています。しかし、この概念がキルケゴールの実存主義にどのように適用されるのか、そして神と実存との関係における葛藤が生じるのかどうかは、非常に興味深い問題です。この記事では、サルトルとキルケゴールの実存主義の違い、キルケゴールの有神論内実存の理解を深め、その背景を考察します。
サルトルの「実存は本質に先立つ」の意味
サルトルの「実存は本質に先立つ」という言葉は、彼の実存主義の中心的な命題です。サルトルによれば、人間はまず存在し、その後に自らの本質を作り上げていくのです。つまり、人間は生まれた時点では何も決まっていない「無」であり、社会や他者との関わりを通じて自己を形成していくという考え方です。
この「実存は本質に先立つ」という考え方は、伝統的な哲学における本質主義に対する反論であり、人間の自由や選択、責任を強調するものです。サルトルは神の存在や超越的な本質を否定し、人間が自由に自らの人生を作り上げることができるという立場を取ります。
キルケゴールの実存主義と有神論内実存
一方、キルケゴールは、実存主義の先駆者として、神と実存との関係に深く関わりました。キルケゴールにとって、実存の核心は「自己の存在に対する認識」と「神との関係」です。彼の実存主義は、神に対する信仰と、神と人間との関係の中で自己を認識することを強調します。
キルケゴールの思想では、人間は自分の存在に対する葛藤を経験し、その葛藤を解決するためには神の存在を受け入れ、信仰によって自己を確立する必要があるとされます。この信仰は、人間の自由を尊重しつつも、神の意志に従うことを求めます。キルケゴールの実存主義は、無神論的なサルトルとは異なり、神と人間の関係が不可欠な要素として扱われます。
サルトルとキルケゴールの対比:無葛藤か葛藤か
サルトルとキルケゴールの違いは、実存と神の関係において明確に現れます。サルトルは「実存は本質に先立つ」として、個人の自由と選択を強調し、神の存在を否定しました。つまり、人間は自由であるが故に、自己の存在を自ら作り上げなければならないという立場です。
一方、キルケゴールは神の存在を前提とし、実存の葛藤を重要視しました。彼にとって、自己の実存は神との関係を通じて確立されるものであり、この関係の中で人間は内面的な葛藤を経験します。神を信じることが人間の実存を形成するための核心であり、この葛藤を超えたところに信仰の確立があるとされます。
キルケゴールにおける「実存は本質に先立つ」
キルケゴールが考える実存主義においても、実存は本質に先立ちますが、その実存は神との関係において成り立つものです。つまり、キルケゴールにとって、「実存は本質に先立つ」という命題は無葛藤で即せるものではなく、信仰と神の意志との間での葛藤を経て初めて実現するものです。
この点で、キルケゴールはサルトルと異なり、実存と本質の関係において神の存在が重要な役割を果たします。実存の前に神を置くことで、自己の存在は神の意志に従う形で確立されると考えられるため、実存の葛藤は神との関係の中で解決されるのです。
まとめ
サルトルの「実存は本質に先立つ」とは、人間がまず存在し、その後で自らの本質を作り上げる自由な存在であることを示しています。これに対して、キルケゴールの実存主義では、実存は神との関係を通じて確立され、その過程で内面的な葛藤が生じます。キルケゴールにとって、実存と神の関係は無葛藤で即せるものではなく、神に従うことが実存の本質的な側面となります。
このように、サルトルとキルケゴールは実存主義という枠組みの中で異なる立場を取っており、実存に対するアプローチも大きく異なります。サルトルは自由と選択を強調し、キルケゴールは信仰と神との関係を重視します。それぞれの思想を理解することで、実存主義の多様性と深さをより深く掘り下げることができるでしょう。
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