1890年2月、北洋艦隊は冬季の寒さを避けるため南下しました。24日、丁汝昌が指揮する「致遠」などの4隻の艦船は南海一帯で訓練を行い、琅威理、刘步蟾、林泰曾は「定遠」、「鎮遠」などの艦船を香港で修理していました。
軍艦の旗の取り扱いと最高指揮官
近代海軍の慣習において、艦船に掲げる旗はその艦船に駐在している最高指揮官を示すものであるとされていました。例えば、丁汝昌が艦船に乗っていれば、提督旗を掲げることになりますが、もし最高指揮官が刘步蟾であれば、総兵旗を掲げるべきでした。
3月6日、刘步蟾は艦船の旗を変更し、提督旗を降ろして自らの総兵旗を掲げるよう命じました。これは、彼が自らがこの艦隊の最高指揮官であることを示すための措置でした。
琅威理の反応と争い
この決定に対して琅威理は激怒し、すぐに刘步蟾に対して抗議しました。琅威理は、丁提督が離職し自分が副提督としているのに、なぜ提督旗が降ろされて自分の権限が無視されたのかと質問しました。刘步蟾は「海軍の慣習に従っただけだ」と答えましたが、この答えは琅威理をさらに怒らせました。
琅威理はその後、李鸿章に電報を送り、自分の意見を訴えました。李鸿章の反応は非常に「李鸿章風」で、すぐに琅威理専用の「副提督旗」の製作を命じ、軍艦に掲げるよう指示しました。
李鸿章の対応と結果
李鸿章の対応は、非常に実務的で現実的なものでした。海軍の指揮系統と旗の取り扱いに関する問題を円滑に解決するため、迅速に対応し、問題の平穏な解決を目指しました。最終的には、琅威理専用の副提督旗が作成され、問題は収束しました。
まとめ
1890年の北洋艦隊の指揮官に関する問題は、軍艦の旗の取り扱いや、最高指揮官の権限に関する慣習が引き起こした争いでした。李鸿章の適切な対応によって、問題は解決に向かい、歴史的な事例として残ることとなりました。このエピソードは、中国海軍の伝統や、指揮系統に関する重要な教訓を含んでいます。
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